拝啓 新社会人の皆さん、如何お過ごしですか?

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

この4月に晴れて社会人になった皆さん、如何お過ごしですか?

研修中の人、研修も終わりそれぞれの部署に配属された人などさまざまだと思います。社会人になる前(私も含め)、つまり小中高大においての人間関係は極めて年齢の近い人だけの関係だったと思います。

会社という組織に入ると、最初こそ同期(同年代)と一緒に研修を受け、学校時代の延長のような気分だったのではないでしょうか。それが各部署にそれぞれ配属されると、環境は一変します。同期はほぼおらず、先輩、上司しかいません。年齢もさまざまです。ほぼ自分よりも年上ばかりの環境と言っていいでしょう。

そんな環境で緊張と不安が入り混じった状態の新入社員の人もいると思います。その中で皆が皆、優しい先輩とは限りません。業務に忙しそうにしている先輩に遠慮してみたり、言うことが変わったり、単純に取っ付きにくかったり、といろいろな要素が絡み合って、新人にとっては緊張の連続でそれだけでグッタリしている時期だろうと察します。

既に怒られた、という人もいるでしょう。萎縮してしまい出社が怖くなったりする時期でもあります。私もそういう時期がありました。昼休みに一人になれる時間にホッとしたり、緊張と不安を誤魔化しながら必死に頑張っていると思います。会社から帰宅して部屋着になって座った時、どれだけホッとしたことか、あの頃の自分を思い出します。

『そんな不安や緊張なんかないよ』という人はラッキーだと思います。たまたまあなたにとって恵まれた職場環境なのでしょう。新入社員をよく観察していると、4月当初は大体希望に満ちた笑顔が多いのですが、研修が終わり部署に配属されてくると、当初の笑顔は消えています。ちょっと疲れた顔をしています。覚えることも多くわからないことばかりなため、不安げにも見えます。入社3年程度の社員の顔は、会社や業務にも慣れ、力の抜きどころの要領も覚え、ある程度余裕のある顔付きになっています。社内の人間関係の構築もある程度できているのも大きいと思います。彼らはいわゆる学生気分が完全に抜け、社会人の顔付きといった感じでしょうか。

ブラック企業でないことが大前提ですが、私も当時、入社から3年目まではかなりメンタルが不安定な時期でした。この仕事は自分に向いていないんじゃないか、辞めたい、日曜日や連休最後の日が憂鬱だな、これでいいのか、など自問自答の日々だった記憶があります。そんな思いが入れ替わり立ち替わり巡っていました。その時出した結論は、

『とりあえず明日だけ頑張ろう』

というものでした。そうやって『とりあえず明日だけ』、その日が終わればまた『とりあえず明日だけ』という感じです。こんな生活がずっと続くのかと思ったら潰れそうな気がしたので、苦肉の策として『とりあえず明日だけ』は頑張ろう、明後日のことは今考えず明日また考えよう、という感じでした。つまりは騙し騙しですね(笑)

『とりあえず明日だけ頑張ろう』というのは今でも使っています。社会人になって長いですが、いいことばかりはなくツラいこともありますから、そういう時の気持ちの持ちようの一つとして、『とりあえず明日だけ頑張ろう』と思うようにしています。自分で自分から逃げたと後ろめたい気持ちに縛られないためでもあります。

置かれた環境によって感じることは人それぞれ違うと思いますが、今言えることは、一時的なネガティブな感情に惑わされ、流されてはダメだ、ということです。ネガティブな感情になることがダメ、と言っているわけではなく、その感情とどう向き合うかということです。

弊社の心理士である本城ハルに教わったことですが、人に言えるような大したことでなくていいから、寝る前などリラックスしている時に、3つ程度『今日の自分を自分で褒めてやる』というものです。どういうことかというと、今日も遅刻せずに出社した、昨日教わったことが忘れずにできた、など些細なことでも構わないから自分で自分を褒めるということです。私は最近『今日請求書を出した』『今日洗濯した』『缶コーヒー飲むのを我慢した』自分を褒めました(笑)誰にも言う必要がないのだから、どんな小さなことでも、人には当たり前と思われることでもいいのです。こうしたことを毎日繰り返していると自己肯定感が下がりにくくなると言われています。

ネガティブな感情は生きている以上、いつでも抱く感情ですから、そういう感情を否定していてはメンタルが疲れてしまいます。ネガティブ感情を受け入れ、それとどう向き合うか、それが自分の人生を大切にすることに繋がるのかな、と思います。

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メンヘラという泥沼世界【3】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

【2】からの続きになります。かなり重たい話になるので閲覧注意です。

益々Sの束縛は強くなり、要求の難易度は高くなっていきましたが、共依存にどっぷりズブズブになっていた私は、『いつも孤独で誰にも理解されないツラさを味わってきたSのことを私だけは理解したい』と必死に彼女を包み込もうとしました。

寂しい、会いたい、そばにいてほしい、誰にも邪魔されたくない、私をわかってくれるのはハルちゃんだけ。

どのメールにもSが望む“解(レス)”があり、それ以外のレスだとOD(オーバードーズ:薬の過剰摂取)をし、手首を切り、失踪を仄めかすメール。そこに私の意思や感情が入り込む隙間はなく、少しでも(否定ではない)意見をしようものなら、手首を切り目を離した隙に首を吊ろうとし、ベランダから飛び降りようとする・・・。そして私の知らないS側の人間を持ち出し「〇〇もそう言ってた」と、人格すべて否定するような凄まじい暴言がエンドレスに続きました。

メンタル安定タイプの私でもゴリゴリ削られ疲弊してきた頃、ついに決定的な出来事が起こりました。

Sと過ごしていた時に抗いようのない睡魔に襲われ(どうやら医師から処方されている睡眠導入剤を盛られたらしい)、目が覚めるとSの小指と私の小指がきつく糸で結ばれ、指先に鈍く痛むかなり深い何かの刺傷がありました。

Sは目覚めた私に「ハルちゃんは絶対に私のこと見捨てないよね?何があっても捨てないよね?信じていいんだよね?」と言い、私は「気持ちはそうでも今のままだと現実難しくなるから、一緒にいるためにはどうしていくことが一番かを考えようよ」とフラフラしながら答えました。私の前に座るSの手には血のついた千枚通しが握られていました。

絶対無理心中する気だと思いましたが、幸い眠っている間に刺されたのは小指の先だけで、他には傷はありませんでした。そしてSは互いの血を飲み“一生離れない”という誓いを立てると言うのです。

まだ睡眠導入剤が残るぼんやりとした頭で私は『ヤクザの盃みたいに皿は和紙に包んで持っておくのか?』などと呑気に考えていましたが、少しずつ覚醒していくにつれ、“勝手に睡眠導入剤を盛られたこと”、“何の承諾もなく千枚通しで小指を刺され採血されたこと”、“わけのわからない一方的な気色悪い血の誓いの要求”・・・と、体の深いところから猛烈に怒りが込み上げ、腹が立ってきました。

それ以上に目の前にいるSがモンスターにしか見えず、「絶対引っ越そう、黙って引っ越して携帯も番号変えて死ぬ気で逃げ切らないとダメだ!逃げ切れなかったら大蛇に喰わせてやる!」とかなりぶっ飛んだ考えしか浮かびませんでした。

とにかく気持ち悪い血の誓いだけは避けなくてはいけないので、必死にSが喜びそうな言葉を並べ、逃げも隠れもしないと話し、その日はSの好物を作り機嫌を取り(当時の私史上最大で盛大なゴマすり)、表面上穏やかに過ごすことに徹しました。

Sと別れた後は夜逃げ屋本舗にお願いする勢いで、その日のうちに部屋を引き払い、職場には事情を話して退職したことにしてもらいました。当然携帯は即刻解約。当時のイベント関係の友人知人から足が付かないように一切の連絡を断ち、2年以上経ってようやく「逃げ切れた・・・かも」と思えるようになりました。

その後Sは違法薬物に手を染めてしまったらしいという噂は耳にしましたが、どうなったかはわかりませんし、知りたくもありませんでした。

私がプライベートでメンヘラと関わらないと決めているのは、この経験があったからです。十分な知識と経験がある今の私ならどうするでしょうか。

やはり絶対に関わりません。

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メンヘラという泥沼世界【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです

【2】では当時を振り返りながら、実際に私が経験したことをお話しようと思います。

メンヘラ度最強なので“ここまで酷くないからメンヘラじゃない”という物差しにはなりません。またメンヘラに男女差はないようですが、男女比では圧倒的に女性が多いように感じます。

以前、セクシャルマイノリティーのコラムでも書きましたが、私は恋愛対象が男女の垣根を越えて成立する、いわゆる“バイセクシャル”で、長いお付き合いの今のパートナー以前は同性がパートナーだった過去もあります。

その彼女を“S(当時27歳)”として、自身もズブズブの共依存になり、友人関係を破壊され、危うく仕事まで失いそうになった経験をお話します。

Sと出会ったのは今から20数年前になります。当時定期的に開催されていた、毎回参加者が300人を超える大掛かりなイベントで、私はビアンの友人と二人で参加しており、Sとはその友人を通して知り合いました。

色白で目が大きく、華奢で可愛いSは何故か全身迷彩でワイルドな私に興味を持ったようで(珍種みたいな感じでしょうか)、友人を通してすぐに連絡先を渡され、ほどなくお付き合いが始まりました。

「わたし、寂しがり屋だから」が第一声でしたが、『人間なんてみな孤独で寂しい生き物だ』と思っている私は気にもせず、「じゃあ寂しい思い、させないようにしないとね」と笑った記憶があります。

始めは友人カップルとダブルデートを楽しんだり、Sと飲みに行ったり水族館へ行ったりと、カップルらしい日々を過ごしていましたが、やがて私の仕事が忙しくなりSからのメールに返信が遅れたり、電話に出られないことが増えてきました。もちろん話はしていましたし、できる限り早めの対応は心掛けていましたが、何しろS自身は「並外れた寂しがり屋でヤキモチ焼き」と話していましたから。

付き合いも3ヶ月を過ぎた頃、「ここ、覚えてる?」「この日、覚えてる?」「そうそう、この時間だったよね?」がやたらと増えてきました。

彼女の誕生日やお付き合いを始めた日、クリスマスくらいは「記念日は忘れてはいけない!」と気にしていますが、Sの可愛い手帳にびっしり書き込まれデコられた“ハルちゃんが初めてウチに来た日に来る途中、コーヒーを買ったコンビニ(買ったコーヒーの銘柄と時間)”、“ハルちゃんと初めて一緒にパスタを食べた日(メニューと時間、場所)”、“ハルちゃんと初めて手を繋いだ日(場所と時間と天気)”なんて覚えていません。

さすがに「いちいち覚えてない」とは言えないので、「大事な記念日は忘れないけど、小さなこと全部は覚えられてないよ、ごめんね」と伝えたところ、大きな目から涙が。“女の子(彼女)を泣かせちゃいけない”がモットーなので、内心焦りまくりで必死で涙の理由を考えました。いくら考えても“忘れた私を責めてる涙”としか思えず、泣き続けるSに訳を尋ねました。

  • ハルちゃんにとって私はその程度の女だってことでしょ。
  • 私はいつもハルちゃんのことばかり考えてるのに、ハルちゃんは違うんだ?
  • どうせ私なんて誰からも愛されない。
  • ハルちゃんがすべてなのに。
  • 私にとって大事なことでもハルちゃんには小さなどうでもいいことなんだ。
  • ハルちゃんに愛されなかったら私は孤独。
  • 誰も私のことなんか理解してくれない。

今なら「えっ?私、何かそんなに酷いことしましたっけ?」と思えますが、当時の私は「彼女泣かせてしまった!」で頭が一杯でひたすら、「そうだったんだ、そこまで考えられなくてSにツラい思いさせちゃってごめんね」と謝り続けることしかできなかったのです。

あの頃に戻り、自分を張り倒したい気分です。

そして、一番してはいけない思考に陥ります・・・。

  • このコには私しかいないんだ。
  • 私がこのコの支えにならなきゃ!守らなきゃ。
  • 私しかSを理解できない、理解しなきゃ。
  • 私がSを幸せにしてあげたい(幸せにして“あげたい”なんて、そもそもその考え自体が傲慢ですが)

と、底なし沼の共依存地獄に片足を突っ込む思考が生まれました。ことあるごとにSはボロボロと大粒の涙を流し、不安や不満を訴え、その度に私は罪悪感に襲われ、どうすることもできず謝るしかなく、惚れた惚れられたなどではなく、完全に依存したい者、依存される者、心理操作する側、振り回される側という歪な関係になっていきました。

連絡が遅いと「寂しくてたまらないから薬を飲んだ」とメールが来て、「なかなか効かないからお酒と一緒に薬を飲んだ(酩酊状態)」とまたメールが来る・・・自分が思ったとおりのリアクションが返ってこなければ「ハルちゃんがわかってくれない」「ハルちゃんにはわかって欲しかったのに、ツラい」と手首を切り、次々と流血画像が送られてきました。

「ハルちゃんが他の人を好きになったら、その人とハルちゃんを殺して私も死ぬ」と私の携帯電話からSの連絡先以外全部を消そうとする、友達と会うと言っても絶対に付いてくる、「少しぐらい仕事遅れていいんでしょ、ハルちゃんと居たい」「今日はどこにも行かないでそばにいて。でなきゃ手首を切る」・・・と要求や言動、行動がどんどんエスカレートしていきました。

これは昼ドラではなく現実のことです。

【3】では歪な関係がどのような結末を迎えたのかを含め、ますます狂気に飲み込まれていった話の続きになります。

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メンヘラという泥沼世界【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

当時2ちゃんねるのメンタルヘルス板から生まれた2ちゃん用語の“メンヘラ”。耳慣れなかったこの言葉も市民権を得て随分経つので、耳にしたことがある人が多いのではないでしょうか。

今はメンヘラに加え、ヤンデレという言葉もあり、わざわざ“泣き腫らしたような目元”を演出する病みメイクなるものもあるようです。これが男心をどう刺激するのかはわかりません。

適当に泣いて目を擦れば良いのでは?と思ってしまう、そんな私はどんな流行にもいつも周回遅れです。

そして、世の中にはなぜか一定数メンヘラ/ヤンデレ好きが存在しています。

病的な依存や見捨てられ不安からくる束縛、試し行為「私だけを見てッ!」を一途と捉えるのであれば一途と言えないこともない・・・かもしれないですし、メンタル不安定なのを“守ってあげたい”、“自分が何とかしてあげたい/しなきゃ”と捉えると父性本能や何らかの保護欲を刺激されたりする・・・のかもしれません。

“メンヘラ”・“ヤンデレ”、どちらも医学用語ではないので当然診断名はありません。医学的にはっきりした定義はありませんが、主訴やさまざまな症状を繋ぎ合わせ、何とかして診断名を付けざるを得ないので、大概はタイプが幾つかに分かれている【パーソナリティー障害】の何か、多くが生育環境において親子関係に何らかの問題を抱えたまま成長し、人間関係に躓きやすさを持つ【アタッチメント不全/愛着障害】などと記載されます。

メンヘラとは状況次第で誰もが陥る可能性がある“鬱”のようなものではなく、独特の認知(の歪み)からくる、これまた独特の行動様式がある、と考えます。

今回はメンヘラやヤンデレがなぜ出来上がるのか?という原因部分ではなく、表面化しやすい行動や思考を考えてみます。気が向けばいつか原因と考えられる部分についても書くかもしれません。

公私問わず、今までに多くの“メンヘラ”と思われる人たちと関わってきましたが、彼らには必ず共通することがあります。

  • 強い執着/依存
  • 何らかの依存症→アルコール・ギャンブル・セックス・ゲーム・SNS・買い物など
  • 見捨てられ不安
  • 試し行為
  • 空虚感と孤独感
  • 自殺念慮
  • 自傷行為→OD(オーバードーズ/薬の過剰摂取)、リストカットやそれに準ずるもの
  • 承認欲求の強さ
  • 傷付き恐怖
  • 被害者意識
  • 感情コントロール不可能
  • 思い込みの強さ
  • 対人関係の不安定さ
  • 地雷(?)を踏み抜いてしまった時の激しい行動化

などです。一見するとなかなかドラマチックな人生を送っているように見えるのですが、その渦に巻き込まれる距離にいると、底なし沼にズブズブと足を取られ、あっという間に共依存の罠にはまります。

共存、共生と違い、共依存は病的な関係です。

恋愛関係においてメンヘラが求める関係は究極の二者間関係が多く、友人関係を破壊され、社会的に孤立し、仕事さえ行けず、まさに“ふたりだけの世界”に持ち込まれた例も少なくありません。

「死にたい」「生きている意味がわからない」「誰からも必要とされない」「私なんかいないほうがいい」「本当は私のこと愛してないんでしょ」と、事あるごとにループし、答え方を間違えると(こう答えてほしい、という彼らなりの解を間違えること)、それ以外は揚げ足を取るようなエンドレスなやり取りで話の矛先がコロコロ変わって泥沼化、激怒スイッチオン、家出や自傷スタートのいずれかにシフトします。

のべつまくなしのラインや電話(鬼ライン、鬼電というらしい)、血まみれリストカット画像の送信、いきなりの「さようなら」はあまりにも有名なよくアルアルです。

次回は過去に最強メンヘラな彼女に振り回された経験と、なぜ彼女がそのような行動を取るようになったのかを【2】【3】に分けてお話しようと思います。

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障害を免罪符にしてはいけない

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

重たいタイトルですが、そのままです。

(発達)障害を持つ子供の親として日常生活を送る中で、黒い点だったものがいつしか私の胸にモヤモヤと広がっていき、その出所を辿っていった先にあったのがタイトルの【障害を免罪符にしてはいけない】という思いでした。

重複発達障害を持つ息子は、いずれ自分に合ったライフハックを見つけ、社会生活を営むために自身や工夫しながら生活スタイルを整えていく必要がありますが、今はまだ中学生なので日常生活のあらゆる場面で声がけや配慮が必要です。

何でもできるスーパーマンみたいな人間はこの世に存在しませんが、障害故にできないこと、苦手なことが人よりも多くあり、誰かの手や声がけ(今はもっぱら親の手と声がけ)を必要としなくてはいけない場面がこの先もあると思います。

息子には早い段階で障害告知をしていて、段階的に特性を伝え、理解に繋げていっている最中です。どう頑張ってもできないことがあるのは仕方ないことですが、「そのくらいやってくれたっていいじゃん!」「僕にはADHDがあるんだからやってくれて当たり前じゃん」という言葉が出た時には思いっきり叱り飛ばしました。

サポートしてもらうのは“当たり前”ではないのです。

「配慮やサポートはやってもらって当然」この考えは(定型、身体障害、発達障害問わず)とても危険です。サポートする側が『困っている人を助けるのは人として当たり前』と考えるのと、サポートをしてもらう側が『やってくれて当たり前』と考えるのは大きな違いがあります。

「気をつけてメモを取るように心掛けていますが、忘れっぽいところや他の作業に取り組んでいる時には、他に注意が向きにくいのでひと声かけてくれたら助かります」が本来の気の持ち方だと思っているのです。これが「忘れっぽいって言ったんだから声かけてくれてもいいじゃない(声かけてくれるのが“当たり前”)」だと、誰も協力したり力になろうという気は起きません。障害があろうとなかろうとだと思います。

障害がない人でも、誰かの手やサポートを必要とすることがあります。例えば、外国人と接する時、英語を話せない場合。身近に英語を話せる人がいれば力を借りようとしませんか?その時『俺は(私は)英語が話せないんだから、話せるあなたが相手をするのは当たり前!』と思うでしょうか。大概は「英語を話せないので、ちょっとお願いしてもいいですか?」に自然と態度がなっているはずです。障害があってもこの心持ちが大切だと思うのです。

【やってもらって当たり前】

とても傲慢な考えに思えませんか?少なくとも私にはその姿勢が傲慢で偉そうに感じます。そんな態度をされたら、とても不愉快になると思います。

【共生社会】

とても良い言葉ですし、理念も素晴らしいと思います。それには障害があろうとなかろうと「お手間お掛けします」「いえいえお互い様ですから」「ありがとうございます、助かります」「何かあったら声をかけてくださいね」・・・支援や配慮を何もしたくない、と言っているわけではありません。お互いに気持ちよく社会生活を送る上で、この姿勢が何より大切なのではないか?と考えているのです。どちらかが不愉快な思いをしたり、我慢を強いられる社会は共生とは言えません。

不必要に腰を低く「申し訳ありません」「すみません、ごめんなさい」と生きろなんて、これっぽっちも思いません。

「ごめんなさい/申し訳ありません」も「ありがとう/ありがとうございます」も魔法の言葉ですが、支援や配慮に対しては「ありがとう/ありがとうございます/助かります」の気持ちが何より大切な気がするのです。所謂、【謙虚な姿勢】ですね。

恥ずかしながら私は並外れた方向音痴で、いつもパートナーには手間をかけさせていますが「方向音痴でごめんね」ではなく「いつもありがとう、助かる!」です。これが「方向音痴って知ってるんだから教えてくれたっていいじゃない/教えてくれるのが当たり前だよね」だと、わかっていてもパートナーはカチン!とくるはずです。(実際パートナーに、もし私がそういう態度だったらどう思う?と聞いたことがありますが、「方向音痴以前に人としてダメだ」と言われました)

何が違うのかというと【感謝】の気持ちを常に持っていることです。

「わかってくれて当然」「やってくれて当たり前」

どんなに関係や距離が近くても自分以外この世は全部他者です。あなたを気遣ってくれるのは、気遣ってくれる人のあなたへの“好意”や“愛情”で、それは当たり前ではない、とわかると感謝の気持ちが生まれるのではないでしょうか。夫婦関係にも通じるかもしれませんね。

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メディアは時に間違う

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

今月20日まで東京では緊急事態宣言が延長され、未だ不自由な生活が続いています。コロナ疲れでは済まない生活危機に直面し、メンタルが弱っている人も多いと思います。

そんな時、某テレビ番組で女性ボーカルグループのメンバーの一人が、活動を休養しているとのことで、このほどご本人が所属する事務所の公式サイトで、『双極性障害』と『ADHD』であることが発表されました。

本コラムでも何度か取り上げている『ADHD』と聞き、関心を抱いているところですが、ここで気になったのがメディアの取り上げ方でした。

『双極性障害』は精神疾患の一つで、これは病気です。治療で完治する可能性がありますし、何らかの処方薬もあるでしょう。所謂、身体的な病気と同様、“心の病気”と言ってもいいと思います。

問題は『ADHD』の取り上げ方です。双極性障害と一緒に“病気”と表現されていることは大いに問題で間違いです。『ADHD』は発達障害で、肉体でいうところの身体障害と同じです。生まれつき視力がない、聴力がない、足がない、腕がないなどの身体障害を“病気”と言うでしょうか?言いませんね。何らかの病気が原因で腕、足を切断した、視力や聴力を失った、などを除けば、生まれつきそのような身体で生まれた人のそれを“病気”とは言いません。

『ADHD』も生まれながらの特性で、決して病気ではないのに、双極性障害と同じように病気として取り上げるのは問題で明らかな誤報です。

これで「発達障害=精神疾患(病気)」と間違った認識が広がってしまうことを危惧します。発達障害は病気ではないため、完治のための治療法や処方薬はそもそもありません。『ADHD』の特性である多動性、衝動性などを抑制する薬は存在しますが、根本的に『ADHD』を治す薬は存在しません。同じ発達障害である『ASD』(アスペルガー)に至っては、対処する薬すら存在しません。メンタルクリニックや病院の精神科にかかったとしても、その医師が発達障害に明るくない場合が多々あります。何故なら発達障害は精神疾患ではないからです。精神科医師の多くが診ているのは、そのような発達障害が原因で誘発される二次障害を診ている場合が多いのが現状でしょう。ここでいう二次障害というのは、うつ病などの精神疾患です。発達障害は二次障害を誘発しやすいのは確かですが、発達障害自体は病気ではないため治療法はありません。つまり精神科医師(心療内科医師も含め)は二次障害であるうつ病などへの治療を施し、薬を処方するに過ぎず、根本原因である発達障害のことに目を向け、対処することはほぼない(あるいはできない)のが現状です。

※精神科医と心療内科医の違い:簡単に言うと、精神科医はうつ病など精神疾患の専門家であり、心療内科医はストレスなどで誘発された身体疾患(胃痛、頭痛、下痢など)の専門家。発達障害の知識はあるかもしれないが決して専門家ではない。そもそも疾患として認められていない発達障害には対応しないことが多い。

発達障害は治療すものではなく緩和・低減するもの、と考えています。そのためには子供であれば早期の療育、大人であれば自身がまず特性を受容し、その上でどう自分自身で対策できるか、周囲の理解と配慮を得ることができるかと言っても過言ではありません。

今回の報道にあるボーカルグループの女性の双極性障害はきちんと治療すれば完治の可能性、あるいは緩和が期待できるものですが、『ADHD』は完治しません。そもそも病気ではないからです。メディアは本来、『双極性障害』と『ADHD』を分けて取り上げるべきでした。『ADHD』は身体障害者と同じように、自分自身の工夫と周囲の配慮を必要とする性格のものです。周囲に理解されず、配慮に恵まれない人の多くが生きづらさを感じ、二次障害であるうつ病などを引き起こしやすいのです。発達障害者は身体障害者のように見た目では全然わからず、そのため発達障害者自らがカミングアウトしなければ周囲にはわかりません。しかし、カミングアウトした後、会社でどういう待遇になるか全く予測ができないだけにカミングアウトしにくいのが現状です。ひょっとしたら担当を外されるかもしれない、部署異動させられるかもしれない、最悪な場合リストラ要員にされるかもしれない、などさまざまな不安要素が、発達障害者のカミングアウトを阻害しています。言わないとわからないけど、言えば不利な扱いを受けるかもしれないから言えない、というジレンマに陥っているのです。

組織にカミングアウトできる土壌がなければ、発達障害者は自分が発達障害であることを言えず、そのため過度なストレスに晒され続け、結果二次障害を誘発し、結局退職に追い込まれてしまう・・・これが日本の企業の多くで起きている現実です。今回のボーカルグループの女性も会社員ではなく芸能人という特殊な職業というだけで、本質的には多くの企業で働く発達障害者と同じく、人の何倍も生きづらさを感じ、過度なストレスに晒されていたのだろうと想像します。

もし今回のボーカルグループの女性が復帰しようとすれば、『ADHD』の点は持って生まれた個性として受け止め、周囲の理解と配慮が必要でしょう。医療でなんとかなる問題ではありません。そうでなければ、この女性は復帰した後、二次障害により再び双極性障害など精神疾患を誘発する可能性があります。それをメディアはまた“病気”として安易に取り上げることがないようにしてほしいと思います。

メディアは時に間違う

今回はこのことを痛感しました。メディア関係者には今回のボーカルグループの女性における『ADHD』の報道は明らかに誤報であることを知っていただきたいと思います。

『ADHD』を含めた発達障害は【精神疾患ではない】【病気ではない】

そのことを改めて強調しておきたいと思います。

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