親/当事者が発達障害と向き合うということ【1】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいではありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

現在15歳の息子は小3の終わりに、今も継続通院中の児童精神科でさまざまなテストを受け、発達障害(ADHD・ASD)の確定診断が下りました。

私は早くから違和感を感じあちこちの窓口に相談していましたが、発達障害は見た目や短時間過ごしただけではわからないことが多く、「子供なんてそんなものなのに、親が気にし過ぎで障害を作り出しているんじゃないの?」←これ、子供がいない夫婦に実際に言われました。「そんなに子供を障害児にしたいなんてどこかオカシイ」など、無理解と無知な知り合いから凄まじい言われ方をされた過去もあります。

腹が立つより、あまりの無知さと自分はなんでも知っていると思っている傲慢さを憐れに思ったのを覚えています。

障害を認める。

そこには親も子も高いハードルがあることを知っています。それは偏り「障害は“害”と付くくらいだし人より劣っているなんて恥ずかしい」という思いがあるからではないでしょうか。

“ち害(違い)”くらいにしか考えていなかった私は、確定診断に心からホッとしたのを憶えています。「あー、だから〇〇だったのね」「だから〇〇ができなかったのか」と行き場がなく掌に余っていたパズルがピッタリ嵌った瞬間でした。

そんな息子は小学校高学年で登校渋りから不登校にもなりました。発達障害(グレーも)があると、大多数の定型児(※)向きにカリキュラムを組まれた学習・授業、定型児だらけの学校生活に息苦しさや生きづらさを感じ、登校渋りや不登校になる確率が高いのです。

※定型:発達障害ではない人のことを『定型』と言い、定型児とは発達障害ではない児童の意。

「行けないもんは仕方ないよ、行きたいけど行けないんだもんね」・・・これは息子が絞り出すように「行きたいけど行きたくない(←行けない、ではなく行きたくないという表現により深い苦悩を感じます)」と泣きながら言った時、私が返した言葉です。

今以上に日々修羅場でしたが、二人でおにぎりを持ってピクニックしたり、部屋キャンプしてみたり好きな具を乗せまくったピザを一緒に作ったり、博物館へ行ったことは今となっては良い思い出です。現在進行形で尖りまくりの思春期真っ最中なので、思い出にしてしまうのは早いかもしれませんが(笑)

中学校では本人の希望もあり、一部の先生方を除き学校生活はクローズド(障害をカミングアウトしないこと)で中学生活を送りながら、他校の情緒級(通級)に通っています(入学した中学校には情緒級がなかったため)。

どんなに頑張ってもできないこと、工夫しても苦手なことは多々あります。面倒臭がりで忘れっぽいのと、タスク管理のガバガバさ、思い込みの強さや見通しの立てられなさからいつも何かを探していますし、意味不明なマイルールを振りかざしてはみるものの、本人が頭『???』になっていることもあります。

何かを探しているうちに何を探していたのかわからなくなり、良くも悪くも楽観的なADHD「ま、いっか〜」になることも多々あります(←良くない、困るのは本人)。好奇心旺盛で衝動性に抗えないADHDですから、本人はできるつもり(やりたい気持ちもあり)で自分の脳のキャパシティを考えず、いろいろなことに手を付けますが、そのほとんどは途中で興味を失うか忘れ去られるか得意の「ま、いっか」で、結果放ったらかしになります。

学校生活で周りに特性で迷惑をかけないように必死で頑張っている(らしい)分、家ではあり得ないADHDっぷりを発揮し、これが親子間衝突を引き起こします。脳のキャパシティが少ないのが発達障害で、多くの情報を同時進行で処理(マルチタスク)するのが苦手ですが、見た目にわからない障害だけに、“当たり前に”できる大多数と同じように“当たり前に”できるだろうと思われます。

本人が自分の脳のクセやキャパシティを知り、優先順位を付け、出来ること出来ないことの振り分けができて、苦手なことを上手に他者にお願い(助けてもらう/頼る)できるようになることが必要です。そのためには自分の特性を受け止め、受け入れ、理解していくことはとても重要なステップになります。

今回はここまでとします。次回は続きとして、特性を受け止め、受け入れ、理解していく重要なステップの参考として具体的に書こう思います。

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終わりの始まり【職場篇】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、本城ハルのコラムで『終わりの始まり』を掲載しました。主に恋愛関係を軸にコラムを展開していましたが、職場においても似たようなことはあると考えます。

不安、不満、不信は職場環境でも大いにあり得ることだと、私自身、実感してきた一人だからです。新入社員として、あるいは転職先で、この不安、不満、不信を経験しました。

最初から上司と距離があったわけではありませんでした。むしろ新しい職場環境に希望を持ち、モチベーションも高かった気がします。いい上司に恵まれた、と思っていたぐらいです。とは言っても私の場合、大企業ではなかったので上司といってもつまりは社長でした。

職場の場合、恋愛における価値観とは違い、上司(社長)としての人間性がモロに不安を駆り立て、不満に移行し、不信に陥る、という経過を辿ると思います。ここで誤解してはいけないのは、上司(社長)個人の人間性ではない、ということです。仕事における姿勢や責任であったり、人の上に立つ者の言動であったり、そういう意味での人間性です。

  • トラブル回避の手段を講じる。
  • トラブルが起きた時に、どのように解決するか。
  • 価値観を擦り合わせ、互いの納得に近い着地点を模索する。

企業規模はさまざまですが、少なくとも見栄を張ることなくトラブル内容を正直に話してくれたほうが、従業員に一時的に不安は与えてしまっても不満と不信は予防できると思います。不安のうちは皆で解決しようという新たなモチベーションを生む可能性があります。それが不満に移行してしまうと「やってられない」という気持ちが強くなり、モチベーションには繋がりにくくなります。不信になると、従業員の耳には何を言ってももう何も入ることはなく、見切りをつけて早く転職しよう、という気持ちしかなくなります。

このように、企業の中での【終わりの始まり】は、従業員に見放されることです。当然離職率は高いでしょう。業績以外の不安、例えばチームがバラバラであることも不安材料と言えます。その不安材料をまずは従業員あるいはチーム全員と共有できるかどうか、その上でどうすればいいのかまで話し合う、上司やリーダーにとってはとても勇気が必要だし、ハードルは高いと思いますが、それができるかできないか、で【終わりの始まり】を回避できるかどうかにかかっている気がするのです。

職場において従業員の価値観の擦り合わせまでする必要はないと思います。ただ問題の解決には、共有と話し合いは必要不可欠だろうと思います。リーダーだけ、上司だけ頑張っても限界はあり、間違えれば従業員やチームの不満、不信に繋がるリスクを生じかねません。

不満の数ではありませんが、不満しか出なくなればそのチームや組織の終わりは近いと言えるのではないかと思うのです。

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終わりの始まり

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

友人関係でも夫婦関係でもなく、当たり前に親子関係でもない恋愛関係。その中で恋愛は一番不安定な人間関係ではないでしょうか。

恋愛関係も友人関係も物理的距離“だけ”が原因で壊れることはあまりないと思っています。不安不満不信など原因はともかく、自分の中で相手に対し“どう感じたら”、“どんな感情を持ったら”終わりの始まり・・・なのかはわざわざ意識しないだけで誰もが薄々気づいているのではないか?と思うのです。

ウキウキルンルンなスタートしたばかりの恋人同士は相手に多少「?」を感じても、目の前にいる恋人の“存分に自分フィルターがかかった状態”で都合の良い部分しか見えていません。

人間関係を持続するために擦り合わせたり乗り越えていかなくてはいけない、目の前の立ちはだかる“価値観”という壁に、まだ本格的に向き合う機会がないからとも言えます。あるいは本格的に向き合うだけの関係にまだ成熟していないと言えるかもしれません。

よく3週間3ヶ月3年と言われますが、3週間はともかく、この“3ヶ月”説は3ヶ月3年過ごす中では、二人の間で何らかのトラブルが起きたり、“譲れない”価値観の違いが露呈していくからではないでしょうか。

  • トラブル回避の手段を講じる。
  • トラブルが起きた時に、どのように解決するか。
  • 価値観を擦り合わせ、互いの納得に近い着地点を模索する。

どれも高いソーシャルスキルとコミュニケーションスキルを必要とします。しかも、いちいち言葉にせず“察する”ことも要求されるという高難度です。

どちらか一方がこの能力が高くても残念ながら長続きしません。恋愛は一人では絶対に不可能だからです。我慢に我慢を重ねての長続き、はあり得ますが・・・。

最良なのは、二人ともがスキルを持ち合わせていることですが、世の中、そうそう上手くいかないものです。

どちらかが、もしくは両者が「自分は間違っていない!悪いのは全部相手だ!」という気持ちを持つと、どんな小さなことでもそこから綻びが生まれ、同時に不満も生まれます。これはあらゆる人間関係に言えることだと思います。

コラムでも何度か書いていますが、人はいきなり不信にはならないもので、不安→不満→不信という過程を辿ります。

パートナーと「相手の気に入らないところの数を数えるようになったら終わりに近いだろうね」と話をしていました。もちろん細〜い見えない糸でのみ繋がっていた修羅場三昧の危うい氷河期が私たちにもあり、その時はお互いに気に入らないところだらけ(むしろ嫌なところしかない)だったと思いますが(笑)、今は「気に入らないところは特にないな」なので、なんとか無事に危機を脱したと言えます。

不満を不満のまま不信になるまで放置(逃避)した結果、相手の“気に入らない”数を数えるようになったら、どんな関係も終わりの始まりではないかと思うのです。

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柔軟性のないガチガチな正義を振り回す人

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然ですが読者の皆さんは“正義感”と言われるものの根幹にあるものは何か、ご存知でしょうか。

それは良くも悪くも、長く生きてきた中で培われた“価値観”に他なりません。

価値観は人の数だけ存在します。

コロナが本格的に流行り始めた時、『マスク警察』という言葉が流行りました。そのベースにあるのは『感染したくなければマスクをつける』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける』ですが、マスク警察にかかると『感染したくなければマスクをつける“べき”』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける“べき”』と、“べき”思考が先歩きし“べき”に縛られてしまいます。

酷い皮膚炎やアレルギーなどで本当はマスクを付けたくても付けられない人もいますし、周囲に誰もいなくて人とすれ違わない場所だから苦しくてたまたま一時的に外していたという場合もあります。それぞれ人には事情がある(かもしれない/場合がある)ということですが、物事を一方向からしか見ていないと「マスクしてない、けしからん!」になるわけです。

混んだ店内やバス、電車内でマスク未着用で注意を受けるならまだしも、誰もいないことを確認した上で“たまたま”一時的に顎マスクにしていた時に、いないと思っていたトイレから人が出てきて「なぜマスクをしないんだ?(マスクを付けるべきだろう!)」と突然絡まれたら・・・

そこにいるのはたまたますれ違った二人だけ、話さなければ飛沫も飛ばないのですから、サッと通り過ぎればいいだけのこと。いちいち呼び止めてマスク未着用を咎めるほうが感染リスクを上げ、言い合いになってしまうかもしれない(それ以上かもしれません)トラブルになる可能性を上げているように思えます。

実際に大阪で事件が起きています。報道によると無人だった路地をマスクをせずに歩いていた男性が、たまたま現れた高齢男性にいきなり「マスクしろ」と言われ逆上し、高齢男性に怪我を負わせた、という事件です。もちろん怪我をさせた男性は逮捕されましたが、マスクをしろと言った高齢男性は怪我が元で、下半身不随になり車椅子生活になってしまったそうです。その高齢男性は「何も言わなければよかった」とテレビの取材に答えていました。

“べき”思考は自分を縛り付け、息苦しく生きづらくなってしまうだけでなく、他者にその思考が向いた時には思わぬトラブルを引き起こします。大阪の事件のように下半身不随という後悔しても後悔し切れない事態になりかねません。

「(バスや電車の)車内でお年寄りに席を譲る“べき”」→自分一人がその考えで行動するのはまったく問題ありません。でも、お年寄りでなく元気に見えて座っていても持病があり、立っているのが辛い人だったり、まだお腹は目立たなくても妊婦さんかもしれない、辛い治療をした病院帰りの人かもしれません。内部疾患は身体の不自由とは違い、パッと見はわかりません。これも、“わからなくても人にはそれぞれ事情があるかもしれない”ことなのです。

この「自分はこう思うし考えているけど、他者には他者の考えがあるし、自分にはわからない事情があるのかもしれない」と考えること、それは【想像力】です。気持ちの余裕のなさも多少は関係しますが、白黒思考と想像力が乏しい結果が自分の正義を他者に押し付け、「自分は間違ってない!」と身勝手な正義を振りかざす〇〇警察になってしまうのだろうと思っています。

〇〇警察でなくても周囲にいませんか?

「子育てはこうあるべき」

「仕事はこうするべき」

などなど、やたら“べき思考”で考えを押し付けてくるような人たち。

「それいいね、他にもこんなやり方があるよ」ならカチンとこないものを、「それよりこのやり方でやるべきだって」と、いちいちマイルドに否定してわざわざカチンカチンとくる言い方をする人。

単に言い方のクセなのか、物事を自分本位に一方向からしか見られない人なのか、これだけはわかりませんが、相手をするのはなかなか面倒で疲れるのは確かですよね。

【行き過ぎた正義】これは他者都合や事情をまったく考えていない、正義の名のもとに自分都合でのみ人を傷つける、もはや凶器です。

振りかざす正義感同様、意思疎通に便利な言葉というツールを、できれば凶器として使わないようにしていきたいものです。

見えない価値観、見えない他者の都合や事情。見えないけれど、確かに存在するものだと頭の隅に入れておくだけで変わるのではないでしょうか。

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溺れる者は藁をも掴む

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

新年明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年末年始は如何お過ごしでしたでしょうか。仕事初めがあった直後に雪で本日10日は3連休最後のお休み、少しホッとできた頃だろうな、と思います。一方でコロナ感染者が徐々に増えていて、まだまだ不安が払拭されない年明けとなりました。

歴史を振り返ると、疫病蔓延、飢饉、飢餓、ノストラダムス1999年世界滅亡論など、人々の不安を煽るような“何か”が起こるたびに怪しげな宗教家や占い師、祈祷師、胡散臭い預言者などが現れ人々の不安につけ込み、ますます不安を煽って混乱に陥れ、“救われる”、“正しい”と言われる道に導いたり導かなかったり、詐欺にも似たことを繰り返してきました。

『コロナ禍+ストレス社会』でもある現在も同じように不安、不満、不信が蔓延しやすい状況と言えます。将来不安(経済的、身体的)がなく、日々充実、十分な休養も取れている状態だと人は皆不安は極めて少なく、余裕を持って“その人らしく”過ごすことができます。

将来不安は随分前からこの国には蔓延しているように思います。雇用や年金、教育は働く人にとっては身近な問題として感じてきたのではないでしょうか。いつリストラに遭うかわからない、賃金が上がらない、でも社会保障費(給料から天引き)の負担は重くなるばかり。消費税も上がりました。年金も貰えたとしても暮らしていけるのか?教育もお金がかかり、結婚しても安心して子供を産み、育てることに躊躇してしまう・・・二人目なんてとんでもない。親の介護、自分が将来病気になったら医療費もかかる・・・などなど経済的な不安は高まるばかりです。

そこにコロナです。ただでさえ経済的不安が蔓延しているところに、このコロナは厳しい現実を突きつけました。この2年で経済的困窮者は明らかに増え、明日は我が身の状況です。

希望が見えにくい、まさに不安蔓延社会です。

このような不安が蔓延している現代社会は焦燥感からか(自己向上も?)、スピリチュアル系自己啓発セミナー、アルバイトのにわか占い師、ちょっとよくわからないカウンセラーに傾きがちに見えるように思われます。不安の内容や質は違っても、『不安』というメンタルにおいては、昔の飢饉や飢餓、疫病蔓延などで何かに救いを求める社会情勢とほぼ同じと言えるのではないでしょうか。

世の中にはスピリチュアルカンセラーや前世療法セラピスト、ただのアルバイトのにわか占い師、本をちょっぴり読んでデビューした〇〇カウンセラーが溢れ、石を投げればそれらの何かに当たりそうですが、人々は昔と同じように救い(?)を求めて右往左往しています。

スピリチュアルを完全否定はしませんが、ズブズブのスピリチュアル沼に首までハマって自分の人生をスピリチュアルやホニャララパワーに委ねてしまうのは、非常に勿体なく如何かと思うのです。

タイトルにある“溺れる者は藁をも掴む”に見えませんか?私には藁どころかビニールの切れっ端やマヨネーズのキャップにすらしがみつきそうな勢いにしか見えません。

現代は昔と違い科学が発達しています。科学的エビデンスをもってメンタルをケアすることが可能です。それは不安に溺れそうになったら、科学に裏付けされたメンタルケアに頼ることが可能ということです。病気の治療と同じように科学的対処法でメンタルをケアするという、昔にはなかった選択肢が現代にはあるのです。

「自分は人を見る目があるから絶対大丈夫!騙されるわけない!」と余裕でいる人ほど、妙な藁を掴んだり、助けてくれそうに見えて実は泥舟に乗っかってしまうのを散々見てきました。疑うことを知らないピュアな人だったのかもしれませんが・・・。

溺れそうな時に必死に藁を掴んでも、所詮藁なんて共に沈みます。静かに力を抜き、波に身を任せ、自力で浮かんでいるだけのほうが、まだ溺れずに済むかもしれません。科学的なメンタルのケアで静かな力の抜き方、波への身の任せ方、自力での浮かび方を身につけて、心しなやかに、そして軽やかにこの苦難をかわしていきたいですね。

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