注意機能【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

人には触覚をはじめ全身に多くの感覚器官があり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚からも膨大な量の感覚情報が大脳に送られます。

しかし、脳の情報処理には限界があるため入力された一部の感覚情報を取捨選択しています。今重要な情報にフォーカスし意識を向け集中するというのが注意機能の役割になります。

人の意識には無意識(潜在意識)/意識(顕在意識)があるのはご存知だと思います。生活する上で今必要な情報を抜き出し意識に上げ(顕在化)、大部分の情報は意識に上げない(潜在化)フィルターを持っています。

定型(もしくは健常者)と言われるタイプの人は、五感から入る多くの情報から無意識に今必要(重要)な情報を拾い上げ(選択・集中)顕在化しています。

スマートフォンで行き先を確認しながら歩いていて横断歩道に差し掛かった、と想像してみてください。目の前の信号を確認するのはもちろん、対向車が右左折しようとしていないか、スピードを出した車がこちらに向かって来ていないか、点滅する黄信号で向こうに渡り切れるか、自転車やバイクはいないか、渡ったらどちらの方向か、などさまざまな情報を無意識に感覚器官から受け取っていますよね。

定型(もしくは健常者)が意図せず無意識にやっている作業でも、発達障害/高次機能障害/認知症などがあると、多くの情報から特定の情報を拾い上げる注意の集中・選択が苦手だったり、できないことで日常生活に支障が出ることも多くあります。

ASDなどで感覚過敏があったりADHDがあると、感覚情報が多すぎて押し潰れそうに感じたり、脳内整理ができずパニックになったり、思考がフリーズしてしまう場合もあるのです。

自分ができることは誰でもできるだろうと思ってしまいがちですが、目に見えない特性から不得手だったり、できない人もいる、ということを知るのは大切なことだと思っています。

4月のコラムは5日水曜日は春季休業のため休載し、10日月曜日より掲載します。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

注意機能【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

以前このコラムにも書きましたが、認知心理学で使う『注意』は、一般的に使われる“頭上注意”や“大雨注意報”とは意味が異なるという話をしました。

2020.6.5コラムより

私たちは『注意』をさまざまな認知機能のベースになるものと考えています。

注意の定義はなかなか難しいのですが、日常に溢れ返る多くの情報から自分に必要/大切な情報を選択する、選択/処理機能、それが『注意』であるといえます。

『注意』には大きく分けて【全般性注意】【方向性注意】がありますが、今回は私たちが日常的によく使う機能、全般性注意をお話ししようと思います。

全般性注意には、【持続性注意】【選択性注意】【転換性注意】【分配性注意】があります。持続“的”、選択“的”という表現もしますが意味は同じです。それぞれについて説明します。

【持続性注意】
持続する、繰り返しおこなわれる活動/作業の間(話を聞く/読書/勉強/運転など)、その行動を持続させる力。 ← 最も低次で基本的な注意。
読書/書類整理/勉強/運転などの作業を例にとると、注意集中を妨げる要因がない静かな環境で、一定時間集中して作業や行動を継続する能力のことをいいます。
【選択性注意】
複数の刺激がある状態(テレビ/他人の会話/外部の騒音など)がある環境で、これらの外部刺激を無視し、本来の目的作業、行動のみに専念する力。
アナウンスや音楽が流れ、人出も多い雑踏の中を歩きながら友人の話に耳を傾けるような状況で発揮される力です。
【転換性注意】
複数の情報処理を交互におこなう力のことで、例えば勉強中に電話がかかってきた時に電話対応中は勉強の手を止め中断し、電話を切った後にすぐまた勉強を再開する、などです。
この力が弱いと、止めなくてはいけないのにゲームを止められず、どんどん風呂に入る時間が遅くなってしまう/部屋の片付け中に出てきた雑誌を読み耽ってしまい、部屋が片付かない、などが起こりやすくなります。
【分配性注意】
電話をしながら要点をメモする/資料をまとめながらスケジュール確認をする/料理をしながら洗い物を片付けていくなど、複数の作業/行動を中断せずに継続し同時処理する力。 ← 最も高次で複雑な注意機能になります。
実際には二つ以上のことを並行して作業していくのでマルチタスクといえます。わかりやすい最たる例は料理で、究極のマルチタスクですね。

次回は注意機能を情報フィルターという視点からお話しします。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

『多様性』どこまで認める?【組織】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、『社会としてどこまで多様性を認めるか』ということを書きました。今回は【組織】、つまり企業の中において、どこまで多様性を認めるかを書こうと思います。私どもが考えるひとつの提示であって、決してこうあるべきという意味ではありません。

組織は社会と違い、狭い世界になりますが、社会篇の中で書いた『個人の権利を侵害しない範囲内』であることは、組織にももちろん当てはまることは言うまでもありません。

その上で、どこまで多様性を組織(企業)として認めるかを考えます。

組織の場合、より社員個々人の価値観をいかに理解し、あるいは説得していくかが問われると思うので、社会としてよりも複雑な問題を孕みそうです。学校でも同じかもしれません。

例えば、結婚。今の時代、結婚観は人それぞれです。今の団塊の世代の人たち辺りまでは専業主婦が多かったように思います。つまり男性は働き、女性は家庭を守るという長年日本を覆っていた結婚観です。当時女性は就職して結婚したら退職することが一般的でした。寿退社という言葉があったぐらいです。

今は違います。経済的な事情もありますが、それとは関係なく女性もキャリアを積み、働き続けたいと考える割合が当時と比して増えています。しかし、そこで今問題となっているのは、昔の結婚観と今の結婚観の狭間で、仕事(女性)・家庭(妻)・育児(母)の1人3役の重圧を背負わされた女性たちの存在です。

これは今最もホットな問題でもあります。組織の育児に対するフォローをどう構築していくかが問われていることでもあるからです。国ができることは限界があります。男女問わず、育児しやすい労働環境を創出するかは個々の組織で考え、取り組まなければなりません。社員個々人に合った具体的な施策は難しいかもしれませんが、組織に最も大事なことは、育児しやすい職場環境であることを社員に実感し安心してもらうことではないでしょうか。

恐らく、組織にとって多様性をどこまで認めるかの必要条件は、さまざまな価値観を持つ社員に、最大公約数的安心感を与えること、ではないかと思います。心理的安全性はそのひとつの解であり手法だと思います。

一方で、組織には社風という企業文化・企業風土があります。組織規模が小さくなればなるほど、トップの考えがダイレクトに企業文化となり企業風土になります。大企業であれば、長年培われた伝統がそれに該当すると思います。いろいろな組織があって当然だと思いますが、どんな組織であれ、これからの組織に求められるのは、社員の多様性をいかに認めることができる企業文化へと進化(深化)させることができるか、だと思います。自治体も例外ではありません。

思うに今組織が直面している課題は、社員の多様性と企業文化の間にある溝をどう埋めていくか、ということだろうと思います。

例えば産休・育休を考えてみると、制度は組織にあっても取得しにくい社風であれば、その制度はお題目に過ぎず、ポーズに過ぎません。活用されてはじめて制度が活きるというものです。

もっと言えば組織にそのような制度があるにも関わらず、直属の上司がいい顔をしない、あるいは取得しないように圧力をかけてくることもあるでしょう。そのような企業文化が蔓延ったままだと、社員の多様性など到底認められることはないと推察できます。

組織としてどこまで社員の多様性を認めていくかという問題は、即ち、溝を埋めていくかは組織の文化をアップデートさせる必要があると言えます。これにはトップをはじめとする経営層の思考回路を変える必要があります。

時代に支持される企業風土をどのように作り上げていくか、という仕事は経営層にしかできない仕事だと思います。業績や戦略を考えることも大切ですが、それを実行するのは人、社員です。その社員が能力を存分に発揮するためには、企業文化、企業風土というものがかなり心理面に影響を与えます。

とにかく行動しろ、失敗の責任は部長である私が取る。という企業文化であれば、社員は恐れることなく果敢に挑戦しようとするでしょう。失敗したら怒られる、責任を追求される、と思わせる企業文化、企業風土であれば、社員は挑戦して失敗するリスクを冒そうとは思いません。それはその企業にとって長期的な視点で見れば損失に繋がることにならないでしょうか。

ベンチャー企業が元気な傾向にあるのは、組織規模が小さくトップも若手が多いことを背景に、長年培った伝統も歴史もないため、いい意味で過去に捉われず、トップをはじめ社員の多様性の活用が一応できているからではないか、と思われます。(トップと社員の世代が近いせいか価値観を共有しやすい、あるいは立場の距離感も近いため、必然的にコミュニケーションが活発になり、制度化しなくてもよい面はある。)

このように考えてくると、組織において多様性をどこまで認めるか、という問題は、長年の伝統や歴史に培われた企業文化・企業風土をアップデートしつつ、その範囲内で社員に対して最大公約数的安心感を与えることだろうと思います。

社員の多様性をどこまでも認めべきとは思いません。やはりそこには企業ごとに一定の範囲内という制約は外せません。そうでなければ、その企業としての個性が失われることになるからです。社員もそうした制約の根拠を理解することが必要です。それにはやはり、コミュニケーションが肝になってきます。

組織として多様性をどこまで認めるかは、一人でも多くの社員にいかに気持ち良く安心して働く環境を提供していくか、という問題に言い換えられます。それにはまず、トップをはじめとした経営層の思考のアップデート、次に管理職クラスの思考のアップデート、そしてコミュニケーションスキルの向上だと考えます。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

サバサバ系女子

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

東京は桜が開花しましたね。平年より10日早いそうです。

さて、今回はサバサバ系女子について書こうと思います。

いますよね、自称サバサバ女子。

私は今まで何人か出会ってきました。まがい物のサバサバ女子ということで、私は“偽サバサバ女子”、略して“偽サバ”と命名します。

小さなことを気にしなくて大らか?同性同士のお付き合いが苦手で友人は異性ばかり?趣味がアクティブなサバゲーや海釣り?他者のバウンダリー(自他境界)をマルっと無視してズカズカ踏み込んでくる人?

偽サバ女子には特徴があります。

まず、本当にサバサバしている人はわざわざ自分から「私、サバサバしてるから」など言いません(笑)他者にサバサバしていると捉えられようと捉えられまいと、どうでもいいからです。

偽サバは自分の発言や行動で誰かが気を悪くしたり不快になる、傷つけることがあっても反省したり謝ったりしません。

「ほらぁ、私ってサバサバしてるから何でも思ってること言っちゃうの〜(だから悪気ないの、(´∀`*)テヘ)」と、自分が考えるサバサバした性格を免罪符に自己正当化して謝りません。

それは気遣いできないただの無神経な人だということがわからない残念な人なんですけどね。心で静かに合掌してあげてください(笑)

次によくいるのが「私ってサバサバしているから女の子より男友達が多くてー(男友達といるほうがラクでー)」と男友達が多い(モテる?)アピールする場面。

微妙にマウンティングしている感も否めません。このタイプは「映えスポットなんて、そんな女子らしいこと苦手だな〜、SNSやらないしぃ」と言いながら、異性との飲み会はシレッとアップします。

“男性に囲まれてる私”“男友達いっぱい”でモテるんだをマイルドにアピールしたい裏返しですが、なかなかの承認欲求です。

わざわざ男っぽい言葉を使ったり、多少乱暴な行動(飲み物の入ったグラスを適当に置くなど)を取ってみたりします。

整理整頓せず机が散らかっている様子を「私ってサバサバして男っぽいから(だから細かいことは気にしない (´∀`*)テヘ)」と、時間にルーズなことを、ただのいい加減でガサツ、デリカシーがなく下品なだけを“サバサバしてるから”と勘違いで免罪符にしようとしてきます。

勇気のある人は「それ、サバサバじゃなくて、ただガサツなだけじゃないの?」「それ、サバサバじゃなくてズボラでいい加減なだけだよね」と鋭くツッコムと面白いかもしれません。

私も「サバサバって、モノは言いよう、よね〜」と心の声がダダ漏れてしまったことはあります。

思っていることを我慢せず、思ったままに何でも言うのを“サバサバしてる”と勘違いしている人は一定数いますよね。言いたいことを言うなとは思いませんが、いい大人が相手に何の配慮や気遣いもなく、傷つけたり不快になるかもしれないことを考えもせず、ズバズバものを言うのは・・・。

ただのデリカシーのない無神経な人に他なりません。

わざと敢えてそのような言い方をすることは私にもあります。それは、相手が無神経でデリカシーのないバウンダリーオーバーな話し方をしてくる場合に、です。目には目を、歯には歯を、のような感じでしょうか。

「嫌われることを恐れず何でも思ったことを口にする私は裏表のないからサバサバした性格!(カッコいい〜)」とセルフイメージを作り上げる人もいますが・・・。それはただのデリカシーのカケラもない、ただの無神経な人なのです。

本人がどういう意図であれ無意識であれ、周りからは「いちいち否定してくる不愉快な人」「他人に気を遣えない幼稚な人」「話してても面倒な人」「一緒にいても全然楽しくない人」「突っかかってくるから話したくない」と思われているものですが、残念ながら気付けないんですよね・・・。

言いたいことを何でも我慢しなくてはいけない、ではありません。

他者に配慮した話し方ができるほうが素敵な大人ですよ、なのです。本人に悪気はなく、思ったことをそのまま口にする(してる)だけだと思いますが、時々【口撃】になってしまっている人も見かけます。

ズバズバ歯に衣を着せない物言いが「カッコいい」ではなく、他者感情に配慮して言葉を選び、わざわざ他者を不愉快にしないコミュニケーションを取れる人が“カッコいい”のではないでしょうか。

偽サバで評価が下がるのは、とても損なことだと思いますし、わざわざ好かれなくてもわざわざ嫌われるキャラを作り上げる必要もないと考えています。

自分は偽サバになっていないか、一歩退いて自分の全体像を眺めてみるといいかもしれません。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

【カウンセリング】【コーチング】【コンサルティング】の違いや目的

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

私たちがおこなうカウンセリングとコーチングの手法に大きな違いはありませんが、その目的や性質には、かなりの違いがあります。

コーチングは自己実現/目標達成のための自己啓発やビジネス場面で取り入れられることが多い手法です。

それに対しカウンセリングとは、心が抱える問題に対し、専門家が援助、治療をしていく手法になります。

もっとも大きな違いは、

メンタルバランスが安定した状態で(これが重要)プラス方向に力を発揮していけるものがコーチング。

過大なストレスを抱えていたり(公私にトラブルを抱えている/家族を失った/災害に巻き込まれた、など)、心にダメージがあることで感情コントロールが難しい状態にはカウンセリング。(この場合コーチングは不向き)

 ◇

また、よくわからないのがカウンセラーとコンサルタントの違いだと思います。質問を受けることも多くあります。

コンサルタントは相談したい分野の専門家である必要があります。経営/資産運用/教育/終活/ハウスリフォーム/移住などを思い浮かべてもらうとわかりやすいでしょう。コンサルタントは、相談者の相談内容から疑問点や問題点を的確に読み取り、問題解決のために充分な情報提供とアドバイスをおこないます。

一方、カウンセラーはクライエントが自分自身の力で問題を解決できるように心理面から援助していくので、働きかける部分が違うことがおわかりでしょうか。

勉強ができない人に勉強を教えるのがコンサルタント、勉強のやり方を教えるのがカウンセラーと考えると、より理解しやすいかもしれません。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

『多様性』どこまで認める?【社会】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

つい先日、LGBTQの人たちに対して首相秘書官が失言し、更迭されたことがありました。この問題がさまざなところで語られる中で度々出てきた言葉が『多様性』でした。

今となっては『多様性』という言葉自体は新しい言葉でもなく、既に耳慣れた言葉として社会的認知を得ていると思います。

ただ、ここで考えたいのは、

では社会は『多様性』を一体どこまで認めればよいのか?

という問題です。

というのも『更迭された首相秘書官が言ったことも、多様性というならば認める、許容することが多様性というものではないのか?』という議論も散見されたからです。

つまり、ある事柄に対する一方の意見は肯定し、一方の意見は否定することは多様性に反する、という論理です。

“私たちは社会として多様性を一体どこまで認めればよいのか?”この問題に今のところ社会的コンセンサスはまだ取れていないように思います。

注意してほしいのは【社会として】どこまで多様性を認めるのか、ということです。個人としての話ではないということです。つまり、個人としてならLGBTQの人たちの存在を否定する人は、いないと言っても過言ではないでしょう。今の時代、LGBTQを否定する人はそれこそマイノリティーではないでしょうか。しかし私個人としては、否定する人がいてもいいと思います。

一方でこれが社会としてとなると、どうやら違うらしいと感じている人もいると思います。社会として多様性を認めることと、個人として多様性を認めることの間にはまだまだ溝がありそうです。

例えば制度を考えてみるとその溝はわかりやすいです。一般的な男女には婚姻制度があります。婚姻すれば法的に夫婦と認められ、独身者とは違う行政サービスを受けることができます。

しかしLGBTQの人たち、この場合とりわけ同性同士の婚姻制度はありません。これは制度がLGBTQの人たちの婚姻を認めていないと考えることができます。つまり法的な結婚ができないということを意味し、その後の行政サービスも受けられないことになります。実質的には婚姻生活であっても同棲生活と同じ扱いと見なされ、法的にはお互い独身者ということです。

社会が多様性を認める難しさは、そういうことなのだろうと思います。

これは著しく個人の権利を侵害しているという見方もできます。人権侵害というと、とても大袈裟に聞こえるかもしれませんが、当事者にしてみれば、人権侵害みたいなものと感じるかもしれません。

制度は個人の権利の侵害があってはならないことに異論はないと思います。そうであるならば、社会としては個人の権利を侵害しない範囲内において、多様性を認めるとしなければ、多様性を盾にどんなことでもやっていい、言っていい、と早計に考える人が出てきかねないと考えます。

ただ思うだけであれば、憲法で内心の自由が保障されているので、例えば“アイツを殺したい”と思うのは自由です。でも実際にSNSなどで公言する、あるいは実行すれば相手の生存権を脅かし、侵害することになるので、多様性からは大きく逸脱すると言えます。もちろん法的にも罰せられます。

多様性のある社会と言っても、闇雲に多様性を認めることは危険で、多様性のある社会の大前提となるのは、個人の権利を侵害しない範囲内、ではないかと思うのです。

最初の話に戻りますが、先の首相秘書官の彼が、例えば個人として私的な友人と居酒屋で言う分には、それは内心の自由の範囲内として、これほど問題にはならないと考えます。しかし公職の立場での発言となると、LGBTQの人へのある意味公式な差別発言となり、人権侵害(存在の否定)として多様性から著しく逸脱した発言と考えます。

いずれの機会に組織(企業)の中で多様性をどこまで認めるかを書きたいと思います。

<運営会社:Jiyuuku Inc.