機能不全家族【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

読んで字の如く“家族として正常に機能していない家族”のことです。

機能不全家族の中で育つと、親から離れてもさまざまな場面で生きづらさを抱え、人間関係で困難さを持ち続ける人が少なくありません。

それは学業や対人関係、仕事や結婚生活、育児までその人の人生に深いトラウマを刻みつけるのです。

“親と離れたから自分らしく生きられる”

実はそう簡単なことではないのです。

本コラムでも何度か毒親や愛着について書いていますので、参照していただければと思います。

毒親〜前編:大きく4タイプ 毒親〜後編:子供は別人格の他者 生きづらさ/アタッチメント不全【1】 生きづらさ/アタッチメント不全【2】 生きづらさ/アタッチメント不全【3】愛着スタイル回避型

具体的にどのような家庭が機能不全家族、毒親と言われるのか?

家庭内で身体的・心理的な虐待・ネグレクト(育児放棄)があるなどして、家族として機能を十分に果たしていないと考えられる家庭のことを指します。

より具体的には親が子供の尊厳を無視し、まるで自分の所有物かのように思いどおりにしようと暴言、暴力を振るうケースもみられます。

過干渉で子供に意思決定を任せず、親の考えでコントロールし支配しようとするケースでは、親子共依存関係にある特徴もあります。

親の気分次第で無視したり暴言を吐いたり、普段は無関心なのにやたら過干渉になったりと親子関係が不安定なので、家庭内はいつも緊張感が漂っています。

パートナーに対して威圧的/高圧的になる人や、反対に先回りして怒らせないように自分を押し殺す人もいます。

機能不全家族で育つと主に次の2つの特徴があるように思います。

1)他者と信頼関係に裏付けられた持続した人間関係を築けない。

2)自分の感情や気持ちを素直に表現できない。

パーソナリティ障害の境界性パーソナリティ障害にも共通します。

次回はより具体的な例を挙げながら、機能不全家族について考えていきます。

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メディアが取り上げる発達障がい

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

最近、テレビ(主にNHK)が発達障がいについて取り上げることを目にすることが多くなりました。そのこと自体は、とても意義のあることだと思います。

一般に広く発達障がいが認知されることは、社会の発達障がい者への理解が進み、配慮された環境が整う可能性があるからです。市民権を得られつつあると言ってもいいかもしれません。

人の見る目が否定的から肯定的に変わる、人が無知から博識になる、この意義は非常に大きい。もちろん、まだまだ現実は厳しいものがありますが・・・。

一方で、メディアの発達障がいの“取り上げ方”に目を向けて見ると、いささか疑問と危惧を感じざるを得ません。

ADHDとASDに限れば、メディアの取り上げ方はどちらか一方だけと言ってもいいでしょう。そのため、発達障がいの特性もどちらか一方の特性を取り上げます。

これは間違ったメッセージになりかねません。

というのも現実は重複、つまりADHDとASDの両方を持っている人がほとんどで、したがって表れる特性もADHDの特性なのか、ASDの特性なのか、一般にはわかりにくいのが現状です。

ASDの場合、さらに大きく3つのタイプがあります。積極奇異型、受動型、孤立型です。この中でADHDとASD積極奇異型はその特性が似ている場合があるので、判別は困難です。

メディアが『わかりやすい内容』を重視するのは理解できますが、ADHDとASDを完全に分けて取り上げる、というのは乱暴でそれこそ配慮がない気がします。せめて『実際は重複の人がほとんどなので、その特性がADHDとASDのどちらなのか、見極める必要がある』ぐらいはアナウンスしてほしいと思っています。

重複の人がほとんど、ということをメディアは知らないことはないと推察します。事前に当事者や専門家に取材し、リサーチしているはずですから。それでも別々に扱っていることから推測できるのは、複雑になりわかりにくくなる、面倒なイメージが先行して、社会が(企業が)受容しづらい方向へ向かってしまう、などと考えたからでしょうか。本当のところはわかりません。

私たち視聴者に大切なことは、メディアが取り上げることは本当のことである一方、全部ではなく一部である、ということを意識することだろうと思います。関心があれば、自身で調べて理解を深めていけばいい。あくまでもメディアは知るキッカケに過ぎないもの、と思ったほうがいいかもしれません。

ここ数年、私たち視聴者もメディアの言っていることを鵜呑みにせず、自身で調べ自身の見解なり考えを持つ、という姿勢が問われています。発達障がいを取り上げる番組も例外ではありません。メディアで取り上げられている発達障がいの人たちは、あくまでも“例”に過ぎず、それで『発達障がいを知った気になる』のは極めて危険であり軽率であることを、ここで付記しておきたいと思います。

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組織における心理的安全性とは

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

【心理的安全性】
最近よく聞くようになりましたね。

今回は心理的安全性を組織という視点から考えてみます。

“心理的安全性”という言葉にどのようなイメージを持っていますか?

優しさや思いやりなど何となく心地良く耳障りが良いイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。
組織だと“提案が通りやすい”、“皆が話をちゃんと聞いてくれる”あたりをイメージする人が多いと思います。

イメージ先行で組織における心理的安全性の本当の意味を誤解している人もいるようなので今回改めて話をしようと思います。

改めて聞きます。

あなたが考える心理的安全性とはどのようなものですか?

何でも肯定的に受け止めてくれる居心地の良い環境、風通しが良く、皆が仲良く気持ち良く仕事ができる環境・・・。

どちらも正しい認識ではありません。

確かに、“気持ち良く仕事ができる”ことは大切だと思いますが、会社(組織)は仲良しクラブではありません。
もっと言えば、みんなで仲良く仕事をすることが目的ではありません。

心理的安全性が高い組織とは、“他者と意見や考えが違う時でも、誰に忖度することなく率直に意見が述べられる場”と定義できます。

実際、組織にはさまざまな年齢のさまざまな立場の人がいます。
現実で考えてみましょう。

あなたがやる気はあってもまだキャリアも浅く若手の立場だとして、自分よりも遥かに年齢もキャリアも上の人に対し「それは良い判断ではないと思います。なぜならば~」と、何の躊躇もなく自分の考えを発言できるでしょうか。

仲の良い先輩、可愛がってくれている上司が相手ではなく、あなたに対し批判的な人が相手であったとしても。

また、あなたが逆の立場であった時にそれを言われて嫌な気持ちになったり、その場が居心地悪くなるようなことはありませんか?
抵抗なくナチュラルに他者の意見に耳を傾けることができますか。

このように、心理的安全性が高く、自分の考えを率直に発言できる場が誰にとってもいつでも居心地が良い場であるとは限らないのです。

むしろ、心理的安全性が高く誰もが率直な意見を交わしやすい場というのは、居心地が悪くなる可能性もある手厳しい場でもあるということです。

馴れ合いと対極にあると言ってもいいかもしれませんね。

反対意見を述べる時にこそ考えなくてはいけないのが、“アサーティブである”というとです。反対意見≠喧嘩なので、喧嘩を売るではありません(笑)

アサーションスキルを身につけている組織では意見のぶつかり合いがあってもヒヤヒヤせずに見ていられますが、アサーションスキルがないと一気に場が硬直し空気が凍りつく場面を見てきました。

心理的安全性を担保するために、組織全体でアサーションに取り組んでいくことも重要だと考えています。

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認知を歪ませるもの【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連日暑い日が続きますが、如何お過ごしでしょうか。

さて前回の続きとなります。【1】でもお話ししましたが、認知は後天的に育まれていくその人の“物事の受け取り方”です。

機能不全家族の中で育つと認知は歪みやすいこともお話ししました。

では、それ以外ではどのような原因で認知は歪んでしまうのでしょうか?

生きていく中で、何の出来事も起きずに誰とも関わらなければ、良くも悪くも体験は生まれません。

失敗体験は誰にでもあることですし、失敗体験自体が悪でもありません。しかし、モラハラ上司(あるいはパートナー)に、小さな失敗や間違いをいちいち「何をやらせてもダメだ!」「君のように無能な人間は見たことがない」「見捨てないのは私だけだよ」「何度言ってもこれくらいできないなんて辞めてもらうしかない」「そんなことじゃ、もう別れる」・・・などと否定、ダメ出しばかり言われ続けたとしたらどうでしょう。

もちろん最初は「もう少し頑張ろう」「頑張ればできるかな」と思っていても、度重なる否定やダメ出しに心は削られていき、失敗ばかりの自分、何度やってもダメな無能な自分(思い込みですが)に自己肯定感はダダ下がります。

「どうせ何やっても私(オレ)なんてダメなんだ」と自分に諦めてしまします。

何かにチャレンジする機会があってもツラい経験の積み重ねから「自分なんかどうせまた失敗するに決まってる、自分はクズだ」と考えてしまい、踏み出すことができなくなるのです。

失敗する/間違う=自分は無能なんだ、という認知の歪みに繋がっているのがおわかりでしょうか。

他者を信じられない人は、信じられない根底に“裏切られる怖さ”を抱えているケースも多く見られます。誰でも傷つくのは嫌ですし、裏切られるのはもっと嫌なものです。

お付き合いする度にパートナーに裏切られてきた過去があると、無意識に「どうせまた裏切るんだろう」と思ってしまい、連絡がつかない、LINEに返事がないだけで「浮気しているに違いない」「嫌われたんじゃないか」と考えます。

自分の不安や認知の歪みを客観視できないことで、相手の都合を考えられず鬼電鬼LINEをし、本当に嫌われて終わります。←やっぱり私は嫌われるんだ/裏切られるんだ、という負の経験を積む結果になる。

パートナーだけではなく交友関係にも当てはまりますね。

過去、プライベートで自分のタイミングで連絡がつかない、と鬼電鬼メールしてくる人がいました。

「本当は私のこと、どうでもいいと思ってるでしょ?」

「メールくらいすぐ返せるのにメールくれないなんて私のこと嫌いでしょ?」

「私のこと、心配じゃないんでしょ?」

と、こちらの都合はマルっと無視です。

「きっと忙しいだな」「手が空いたら連絡来るだろう」という認知だったら、こうはならなかったはずです。

対面カウンセリングやセッション中には、それが誰でもどんな用件でも一切レスはできませんし(携帯を見ません)、寝ている時にも当たり前にレスはできません。仕事中などはすぐにレスを返せないことは多くの人が経験していると思います。

付き合いきれなくなり“お付き合い終了”となったわけですが、最後に言われたのが「結局ハルちゃんも私のこと裏切るんだ・・・」でした。

寝込むほどげんなり疲れたのは言うまでもありません。

認知の歪みは自分を縛りつけ、苦しめるだけでなく、人間関係も破壊しかねません。時々「この受け取り方って、一方向からの思い込みになってないかな」と意識してみるとよいかもしれませんね。

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認知を歪ませるもの【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

コラムでもしつこいくらい“認知”について書いていますが、今回はその認知を歪ませる要因について考えていきたいと思います。

認知とは限りなく平たく言えば、その人のものの受け止め方です。気質的な遺伝はともかく、生まれ落ちた時は誰もが価値観どころか認知など育まれていません。ということは、認知は先天的なものではなく、後天的要因によりその人の中で育まれていくものだと言えます。価値観ともよく似ていますね。

認知が偏る、歪んでいるとどのような生きづらさが生まれるのでしょうか。

【朝、社内で前から同僚が歩いて来たので挨拶をしたが無視された】

○歪んだ認知
何か気に入らないことをしたかな?(不安)
アイツ、無視しやがった!(不快/怒り)

○歪んでいない認知
何か考え事していて気づかなかったのかな?
声が小さくて聞こえなかったのかな?

不安や怒りといった感情は生まれない。

【パートナーからLINEの返事が来ない/電話に出ない】

○歪んだ認知
何か気に入らないことを言ったかしたかな(不安)。
浮気してるに違いない(決めつけ)。
別れたがっているんじゃないか(思い込み)。

○歪んでいない認知
スマホの近くにいないのかな。
手が離せない用事中かも。
仕事、忙しいのかな。

【人と会っている時に、その人がチラッと時計を見た】

○歪んだ認知
私、何か気に障ることを言ったかな(不安)。
話してても楽しくないに違いない(想像の飛躍)
退屈で早く帰りたがってるんだ(決めつけ)

○歪んでいない認知
この後、用事があるのかな(時間大丈夫か聞いてみよう)。

受け取り方次第で気持ちや感情が違うのをおわかりいただけましたか?

発達障害特性/HSP/パーソナリティ障害なども関係してきますが、認知は生育環境/失敗経験や成功体験から積み重ねられ、その中に形作られていきます。

日常的に否定/抑圧が多く時には暴力。このようにアタッチメント不全になりやすい環境の中ではのびのびと生きられず健全な認知は育まれません。以前にもコラムで認知の歪みについて書いていますので、参考にしてみてください。

・2020年3月15日コラム

流行りの毒親

精神的/肉体的/性的な虐待はもちろん「あなたのためを思って」「お母さん(お父さん)に任せておけば大丈夫」「お母さん(お父さん)の言うとおりにしなさいね」は耳障りよく聞こえても実は“押しつけ”“抑圧”がぎゅうぎゅうに詰まっています。

手取り足取り子供の面倒を見、危なくないように進む道をならす。障害など特別な配慮が必要な場合を除き、それらをやっていいのは小学校低学年までではないでしょうか。

次回は私が経験した実例を挙げながら、どれほど認知の歪みが本人の生きづらさはもちろん、周りを振り回すことになりかねないのかお話ししたいと思います。

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暑中お見舞い、申し上げます。

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

7月になりました。今年の後半が始まったと言ってもピンときていません(笑)

個人的に夏は四季の中で一番好きな季節です。仕事における蒸し暑さは嫌ですが、プライベートにおける蒸し暑さは、夏を楽しむには不可欠な要素だと思っています。私にとっては気分が開放される季節です。緊張しようにも蒸し暑さがそれを許さない感じがします。

以前、仕事の関係でベトナムはホーチミンへ行ったことがあります。ホーチミンも蒸し暑く、日本の夏に似ていました。雨季と乾季はあるものの熱帯地域なので、年中夏みたいなものです。自然と動きが緩慢になり、街全体がのんびりした雰囲気に包まれていました。気候は人間の行動様式に多大な影響を与えるものですね。

夏にはラムネ、かき氷、ところてん、冷やし中華、そうめん、スイカなど、夏だからこそ美味しい食があります。そして何より海です。

海に近い駅に降り立った瞬間に鼻を抜ける潮の香りは何とも言えません。勝手に気分が高揚します。夏の陽射しに照らされてキラキラと輝く海面を見ながら飲むビールは格別です。

若者やファミリーは海水浴場で戯れ、海の家からサザンオールスターズの曲が流れていたいりします。海の家のチープなラーメンやカレーライスが、普段より数倍美味しく感じられるのはなぜなのでしょうか(笑)

自宅では、毎夏、蚊取り線香を焚きます。蚊のためではありません。蚊取り線香の香りが好きなのです。お香として焚いているようなものですね。もちろん、昔からある、ぶたの陶器を使います。

自宅でできる夏の愉しみは蚊取り線香ぐらいなものです。子供の頃は花火をやっていましたが、今花火をする空き地はなく、公園もほとんどが禁止です。さらに今は苦情を言われかねないご時世なので、自主規制してしまいます。以前、風鈴をベランダに吊り下げたことはあるのですが、風通しが悪く全然鳴らないので止めてしまいました。

夏祭りもありました。今年はコロナの自主規制は解除され、3年ぶりに夏祭りを開催するところが多そうです。夏祭りといえば露店が並びます。必ず焼きそばを買って食べます。人によってはたこ焼き、りんご飴、チョコバナナ、綿あめ、お好み焼きなどを食べると思いますが、私は焼きそばです(笑)これも海の家のラーメンやカレーライスと同じく、普段より数倍美味しく感じてしまいます(笑)不思議です。

それから、この時期は猫の毛がものすごい勢いで抜けるので、そういうことも夏の到来を感じます。

夏が一番好きなせいか、暑くなればなるほどワクワクしてきます。多分春や秋、冬があるからこそなのだと思います。ベトナムのように一年中夏だと、ワクワクはしないでしょう。そういう意味では他の季節があるからこそ、夏が際立つとも言えます。

今年の夏も、夏にどっぷり浸るため海のある街へ行くと思います。その時は「あちぃ〜」と言いながら、なんだかんだと夏を満喫しようと思います(笑)