失言を失礼/無神経だと思わない人(某政治家を思い浮かべながら)

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

長く生きていれば誰でも一度や二度は「あ!マズイこと言っちゃった」という間違いはあるものです。が、何かと失言を取り上げられる政治家の中でも失言オンパレード、無神経が服を着て歩いてる人といえば・・・(自主規制)

名前を間違えただけでも相手に対しかなり失礼にあたりますが(ビジネスシーンで取引先の名前を間違うなど命取りになる可能性大)某大臣への「あのおばさん」「あまり美しいとはいえない」というビックリ発言。

もうね・・・

「あなたは思ったことを思ったまま口に出しちゃう園児ですか?」

毎回毎度ウケ狙いで(場を和ませようとか?)氷点下に冷え冷えなバカ丸出し発言を繰り出す氏に「ちょっとYGとかMMPIやってもらえば」と思う今日この頃です。

野放ししてていいんですかね(笑)明らかに時代に付いていけていないのがわかります。なぜこのような人が当選してしまうのか、当該選挙区の有権者の良識を疑いたくなります。

そもそも、総理大臣当時から政権支持率は低く、挙げ句に政権を野党に奪われ下野させてしまった元総理総裁が、今だに表舞台に立って、影響力を誇示していること自体が気持ち悪い。

民間企業ならそんな社長は辞任し、表舞台から姿を消しますが、永田町では違うようです。総理総裁を経験したことのみが評価され、国民から支持されたかどうかは関係ないようです。

どこかの国のT氏もビックリ発言が多いことを考えると、国を動かす立場になろう(なりたい?)とする人には失言スキルと無神経力が高くないといけないのか?と・・・。

ちょっと考えればわかるだろうことがわからず(我慢できず?)全国民の前で“うっかり”“つい”言っちゃうなんて、ADHD特性の衝動性かASD特性のイマジネーションの障害じゃなければ、

「人としてどうなの!?」

特性ならばある程度は仕方ない部分はあるので(だからといって免罪符にもならなければ許されることでもありませんが)、無神経な失言大臣はまとめてWAIS取って、必要ならSSTに取り組ませるのが良いと思ったりします(笑)

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ちょっと様子が変な17歳息子

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

4月から高校3年(受験生)になる17歳の息子の様子が『ちょっとおかしいなー』と思いながら半月。

重複の発達障害で特性のほとんどはADHDでASD(積極奇異型)特性は少なめの息子は、良く言えば明るく天真爛漫、悪く言えば超面倒くさがりのノーテンキ。気が向かないことは、やらなくてはいけないこと(本人もわかっている)でも自分に言い訳をして何とか後回しにします。←実行機能ヨワヨワ・・・。

認知の違いから齟齬が生まれやすくぶつかる時はありますが、このところ些細な出来事に過敏に反応しての衝突が爆増していました。普段ならお互いに笑って済ませられる冗談に過剰反応して、結構な勢いで食ってかかってくる、感情的にならず穏やかに話していてもブチ切れモードで怒鳴り返してくる、など。

アンビバレントな思春期、それだけではないようです。

自分で自分を持て余している感じでしょうか。上手く立ち回れない自分、感情コントロールができない自分に。キャパシティの問題でもなさそう。

どのような場面でのどんな発言、行動を指して言われたのかわかりませんが、学校で「変わってる」「ズレてる」と言われることがあるらしく(実際、親の私ですら、「変わった認知してるなー(認知歪んでるなー)」「なんかズレっズレだなー」と感じること多々)、本人はとても気にしている様子。

誰にも責任はなく自分だけの問題だったとしても、感情の振れ幅が大きいと振り回されるのは確かで、ストレスや疲れ(心身脳みそ)は、持ち合わせる特性をより一層強くします。

彼なりにストレスコーピングを考えているそうですが、その結果、ただでさえいつも人の倍以上時間がかかる“風呂に入る準備”や“出かける準備”、“勉強に取り掛かるための準備”、“食事”、“就寝するまで”、“どこへいったかわからないモノ探し”に凄まじく時間がかかるようになっています。

そうなると、二人で生活しているので私にも多大な影響が出てくるわけで・・・

私は俗にド定型と言われるタイプでマルチタスクも得意なので、家事全般や仕事、生き物の世話などを一つの流れとして捉え、常時タスクを入れ替え(他に興味や関心があっても引っ張られることなく)無意識に時間配分を考えながら『2時間以内に全部終わらせよう』『買い物に出るから午前中にここまで』とストレスなく行動しています。途中で予期せぬ予定が入っても、瞬時にタスクを入れ替え対応することにストレスはありません。

が、いつまでも風呂に入る準備が終わらず、風呂に入らない息子を前に「22時半くらいまでには洗濯を終わらせたいんだけどなー(集合住宅で周りへの配慮)」とか「弁当箱を先に洗ってくれないとシンクが使えないんだけどなー」とモヤモヤするわけです。

のっけから感情的に声かけはせず、かなり優しく促しの声かけでスタートしますが、まあまず動きません(笑)想定内です。

しかし、しかしですね・・・「そろそろ風呂に入ってほしいなぁ」と思い声かけし、「今から入る」から2時間半は長過ぎです。もはや“風呂入る入る詐欺”です。“ご飯食べる食べる詐欺”もあります。

本人もどうすればいいのかわからずイライラモヤモヤしているのはわかります。なので「自分でも何にモヤモヤイライラしているのかよくわからない時もあるよね。だけどそれで人に八つ当たりするような態度はよくないよ。声かけたらいきなりブチギレるんじゃなくて『ちょっと余裕ないから(疲れてるから)1時間以内には風呂に入るよ』と伝えてほしいし、自分で言ったことを最大限守れるように努力はしてね」と伝えました。

それでハイ解決!とはいきませんし、同じことを何度も繰り返しますが、面倒だけど面倒がらず丁寧に対応していく力を求められるんでしょうね、親は。

つくづく“子育ては忍耐力と理不尽を底上げし、コミュニケーションスキルを高める人間力トレーニング”だと思う今日この頃です。

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とある日の、よくわからない一件

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

コロナ禍も一応終わり、リモートからリアルの場も増えてきました。そこで、ある勉強会に参加しようと、参加するにあたり疑問点を団体事務局に送りました。

疑問点とは、

  • 今はリタイアしている当団体代表の書籍を読み、当日持参すること。
  • 勉強会は無料だが義援金をお願いしている件。

この2点です。

関心があって参加するのは事実ですが、いきなり書籍を買わせる必要があるのか、当日持参する理由は?義援金とは何に対して?宗教も特定の変な主張する活動団体に対しても義援金/募金なんてまっぴらお断りなんですけど・・・。

事務局からは丁寧なメールをいただきましたが、「書籍の件は義務ではありません。念のため改めて当日担当するカウンセラーに確認して貰えますか」とのことで、何度かメールしたもののなしのつぶて。

日も近いことから仕方なく電話連絡してみると、

第一声が物凄ーく感じ悪い。

私:「勉強会に申し込みしている◯◯ですが、疑問点を事務局にお聞きしたところ、担当カウンセラーに確認をと話がありました。今お電話大丈夫でしょうか」←に対し、

「ああ、ああ。で、何すか?」

あ、これ完全にダメなやつ・・・。

私:「書籍購入、当日持参は義務ではないと事務局から聞きましたが担当カウンセラーに確認をと言われました。初心者で現段階では書籍購入予定はないのですが、書籍は当日テキストになるのでしょうか?なくても参加して大丈夫なのでしょうか?」

「初心者いいですよ。テキストじゃないし書籍購入は義務じゃないです。専門用語使うから本読んでないと難しいと思うけど。うちの考え方(その療法を提唱している信念みたいな?)をしっかりわかって参加しないと意味ないと思うので買わなくても読んで来て下さい」

私:「買わなくても読んでくるとは、図書館や本屋で立読みするという事でしょうか?」

「立読みでいいです」

私:「その場合、(書籍は)持参できませんが大丈夫でしょうか?」

「あ、、、じゃ参加はちょっと」

・・・なんなんだ一体・・・。結局購入して持参が義務、と。勉強していきたいと思えば強制されなくても購入しますよ。

電話での感じ悪~い話し方で参加する気持ちが氷点下に冷え冷えになってしまったのでやめました(笑)

結局義援金よくわからず。怪しい活動団体兼ねてたのだろうか。どんな怪しい主張してる団体への義援金なのか確認すれば良かった。

皆さんも、どうぞお気をつけくださいね。

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生きづらさの正体<番外編>

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、『生きづらさの正体』というタイトルで本城が書きました。それは“〜すべき”であるとか“フツーこう考えるだろ”のように、自分の価値観を他者に押し付けるような思考傾向だと、生きづらくなりやすいという話だったと思います。

今回はその番外編として、もう一つの生きづらさについて考察してみたいと思います。私は昭和の後半に生まれ、平成を過ごし、令和を迎え現在に至っています。その間、時代は変わりました。物の変化や進化は当然ですが、価値観も随分変化しました。多分、今の40代以降の世代は強くその変化を感じているだろうと思います。

社会の価値観というか通念なる目には見えないが確実に存在している変化に、もう一つの生きづらさがあるように思います。喫煙はその典型と言えるでしょう。その他、共働き(というより、共働きしないと生活が成り立ちにくい事情も)、女性や子育て、LGBTQ、マナー、効率重視傾向、合理主義傾向、コミュニケーションスタイル、働き方、各種ハラスメントなどなどがそれに当たると思います。

それぞれを細かく取り上げませんが、昭和に生まれ、平成、令和と過ごしてきた中で、これらのことを気にしながら生きていかなければ、一般人であれ社会的制裁を受けやすくなりました。それを可能にしているSNSの普及、影響は無視できないでしょう。

どこか常に監視されている“ような気がする”社会。これが、もう一つの生きづらさの正体ではないか、と思うのです。飽くまでも私見です。

『寛容』という言葉はいずれ死語になってしまうのではないか、とさえ思えてくるほど、窮屈な世の中になったなという印象は否めません。時代の空気としか言いようがありませんが、必要以上に常に我慢を強いられる世の中になったように思います。これが閉塞感の一因でもあるのかな、とすら思います。

『萎縮社会』『殺伐社会』『我慢社会』『あきらめムード社会』、こんな言葉が浮かびます。社会の表(正義・健康・マナー・効率・完全性など)と裏(矛盾・感情・不健康・非効率・不完全性など)のバランスが悪くなって、表ばかりが強調され声高に叫ばれることの気持ち悪さみたいなものを感じます。社会に奥行きがなくなり平面的になったという印象でしょうか。

東海道新幹線は3月のダイヤ改正以降、喫煙ルームを廃止し災害用備蓄ルームにするとのこと。これも喫煙ルームに比べて良い活用のことのように聞こえますが、快適という点で考えると、少なくとも愛煙家にとっては快適の一つが失われることになります。

こういうちょっとしたことが、あちこちで起こっていることで『合成の誤謬』が生じ、上手く言葉にはできない『なんとなく生きづらいな、窮屈だな』という感情を抱いてしまうのかもしれません。

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生きづらさの正体

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

発達特性があると、こだわりやコミュニケーション、社会性、イマジネーションその他諸々から生きづらさを感じやすい人がいます。

また、特性ではなく違う意味で「生きづらいだろうな」と感じる人がいます。

それはわざわざ意識していなくても誰もが持っている【価値観】にガンジ絡めになっている人です。そもそも価値観は、他者の生命を脅かしたり反社会的なものでもない限り、善悪で判断できるものでも、判断してもいけないものだと思っています。

価値観はその人自身が生きてきた中で養われたものの捉え方、思考、人生の指標であり、誰もがどこかで自分の価値観を尊重されたいと思っています。しかし、誰がどんな価値観を持っているのかが生きづらさに関係するのではありません。

では、生きづらさに繋がってしまう価値観とはどういうことでしょうか。

自分にはどんな価値観があるのか、まず思い浮かべたり書き出してみましょう。正義?信頼?コミュニケーション?礼儀?思いやり?協調性?貞節?経済的豊かさ?努力?人間力?

立場や役割が違うと価値観は一層多様化します。

学生なら、入社したばかりの新入社員なら、結婚しているなら、子供が生まれたら、管理職なら、男なら女なら、経営者なら、孫がいる年齢なら、仕事が教師なら、医師なら・・・誰にも顧みられないと感じている絶望と孤独の縁にいる人なら・・・。

先ほども書きましたが、誰もが自分の価値観を尊重してもらいたいと思っています。しかし、他者と関わり合いながら社会生活を送っていると、価値観が似ている人とばかりは出会わないものです。

そもそも会社(組織)は共通する価値観をベースに人間関係を築いたり働く場所ではなく、会社(組織)の理念をベースに働く場所であり、個人レベルで相性が悪かろうと価値観が真逆であろうと、我慢(何とか折り合いをつけて)して社会生活を送らなくてはなりません。プライベートであれば似たような価値観の人を選んでお付き合いできる場合もあるんですけどね。

質問です。

あなたは自分とまったく違う価値観の人と出会った時、「自分とは違う考え、価値観だけど、それはそれでアリだな」「へぇ、そういう価値観に初めて出会った!面白い!」と考える人でしょうか?

それとも「あり得ない、フツーは〇〇するものだろう」「こういう時は〇〇すべきだろう」「〇〇しなくてはいけないと考えないものか」とつい考えてしまう人でしょうか?

後者は生きづらさを感じやすくなります。

「べき」思考が強いと、自分の「〜べき」「〜するものだ」から外れた人、異論を唱える人に対してモヤッとイラッとしがちになるからです。どこかで「自分のように考えるのが当たり前だ、自分のように思う人がマジョリティで正しい」という“自分は間違わない/いつも正しい”という自分視点しか持てなくなり、思いどおりにならない周りに対し、怒りを溜め込みやすくなるので、生きづらさを感じることになってしまうのです。

生きづらさは自分自身が作り出しているかもしれません。いつも周りにイライラしがちな人は、思いどおりにならない周りばかりを気にしたり、責めるのではなく、自分自身と向き合いゆっくり自分と会話してみてください。

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