個の力・・・“個ぢから”の時代

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

最近、面白い記事を読みました。

コロナ禍に入社した新入社員についての記事でした。

コロナ禍になって丸3年。未だにこれといった治療薬はできず、メディアでもほぼ連日、感染者数の増減を伝えています。まだまだ収束する兆しはありません。

とはいえ、世間はマスク着用以外ではコロナ前のような様相を呈しています。コロナと共存する術を得たのか、それとも麻痺してしまったのか、あるいは慣れてしまったのかはわかりません。

そんなコロナ真っ最中の時に大学生で、学生生活も満足に謳歌できなかった人達が、今まさに続々と社会人になっています。そんな彼らについての記事でした。

職場がゆるい

私個人は耳慣れない言葉でしたが、『職場が学生時代のような雰囲気』や『上司に詰められもしなければ、怒られもしない』ような職場を“職場がゆるい”と言うようです。

その背景にはブラック企業の問題やそうでなくても長時間労働、モラハラ、パワハラあるいはセクハラなどが社会問題化し、それに応えるようにここ数年で法改正や新しく法律が施行されたことがあるでしょう。こうした企業を取り巻く職場環境の変化があることは間違いないと思われます。

職場環境や労働環境が改善された部分もあるので、これはこれで歓迎すべきことです。一方で特にこれから仕事を通して人間としての成長やスキルアップを目指そうとしているモチベーションの高い新入社員や若手社員には、物足りなさを感じさせてしまう側面もあるようです。

ただ企業は新入社員や若手社員だけを考えて意思決定することはありません。企業としては全社的な『心理的安全性』を考えた意思決定をすることになります。

ここで企業の意思決定である『心理的安全性』に、新入社員や若手社員が持つギャップがあります。それは『ここで働いても成長できないのではないか』という不安です。

『心理的安全性』がもたらす副作用とでも言うべき新入・若手社員が抱く成長できない不安をどう解消するか、今これが企業内における見えざる課題だと考えます。

新入・若手社員だけに限ったことではなく、社員側もこれからの職場は成長できる場と思わず、成長したければ自分自身でアクションを起こす時代になったと思います。副業もその一つでしょう。副業でなくとも部署を横断した取り組みを模索し、他部署の人たちとの交流を通じて刺激を受けたり、切磋琢磨することも成長に繋がります。

自ら動くまさに『個の力・・・個ぢから』が求められているのではないでしょうか。

企業側もそんな彼らの個の力を発揮できるような組織作りをする必要があります。その一つが『心理的安全性』なのですが、単に『ゆるい職場』にならないために、彼らのモチベーションを維持向上できるような組織になるためには、『個の力・・・個ぢから』を発揮してもいいんだと思わせる企業風土の醸成が必須と言えます。

それにはコミュニケーションスキルが重要だと考えます。特に経営層や幹部社員のコミュニケーションスキルは重要となります。自分の成功体験や物差しではない視点でのコミュニケーションができなければならず、それにはスキルが必要になります。

今までの人生経験によって、知らず知らずのうちに人は考え方の癖を持っています。プライベートでは特に問題にならなくても、職場では問題になる自分自身の考え方の癖を客観的に自覚している人は案外少ないのが現状です。職場におけるコミュニケーションでは、そこに相応しいコミュニケーションを意識することが重要です。

個人ではなく組織人としてのコミュニケーションといえばわかりやすいでしょうか。家庭では恐らく無意識に家庭人としてのコミュニケーションをしているはずです。例えば夫あるいは妻の前では ひとりの男性あるいは女性として、そして子供の前では父あるいは母としてのように。

職場も同じです。上司と部下、先輩と後輩、いずれの立場でも組織人としての振る舞いがあるはずで、これからは一定の主従関係に加えて話せる関係(あるいは話し合える関係)としての『交流関係』が求められる時代になったのではないでしょうか。それには上司であれ部下であれ、先輩であれ後輩であれ、そのベースとなるのは『個の力・・・個ぢから』ではないかと思うのです。

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TVドラマの主人公はアスペだらけ、を個人的に考察してみる【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回に引き続き、今回は『ドクターX』と『臨場』です。

「わたし、失敗しないので」が決め台詞の『ドクターX』の“大門未知子”。

孤立型風味のあるASD積極型でADHDもあるように思います。

人の話を遮り、何でもかんでも「私に切らせて!」は、自分の興味関心のある場面だと人の話を最後まで聞かず、被せたがるADHDの衝動性を感じます。質は違いますが杉下右京より、はるかに空気を読まないですよね(笑)

また、オペ時のあの集中力は間違いなくどちらの特性にも共通する過集中からくるものでしょう。手術というチマチマした細かい作業にじっくり取り組めるのはASDからの特性と思われます。他者からの評価をまったく気にしないところは右京さんに通じる孤立っぽさもあります。

ガチの孤立型と違い、自分のペースで他者と関わることに苦痛を感じませんが、自分の信念は絶対に曲げない頑固さがあるので組織の中では衝突が起き、結果浮きまくります。

それを気にしないあたりはやはりASDですね。

この中でダントツ空気を読まないのは『臨場』の検視官“倉石義男”でしょう。

亡くなった妻と植物を愛し、いつも自分で大切に育てた朝採り野菜をビニール袋でぶら下げ、きゅうりやトマトを齧りながらピリピリ感漂う現場に臨場します。←このエピソードだけでASD確定です(笑)

警察組織にいるにも関わらず、あの浮きっぷりは右京さんや大門さん以上に組織向きとは言えません。まさに我が道を行く、という感じですね。

倉石検視官に関しては、右京さんのような孤立型を感じながらも、以前結婚していた時は受動型ではなかったのかという疑念が生まれます。

ところどころ亡くなる前のエピソードが挟み込まれているのですが、孤立臭がしないんですよね。大切な人を亡くし、深く傷ついた経験から他者との間に垣根を作り、孤立型っぽい(且つ尖りまくり)表れ方をしているように見えます。

倉石検視官も「根こそぎ拾う」と言っているように、物凄く細かな小さな違和感に目がいくタイプです。植物の世話をしっかりやり、雑然としていても無秩序にとっ散らかっていないあたり、ADHDっぽさは感じられません。

余談ですが、『遺留捜査』の“糸村聡”もまたASDと思われます。常に穏やかな雰囲気は受動型を思わせます。

一方遺留品へのこだわりは尋常ではなく、ドラマでは同僚刑事たちに呆れられています。いつの間にかコンビを組んでいる相手そっちのけで、遺留品の真相や意味を捜査し、どこかへ行ってしまうマイペースっぷりはASDそのものです。

月島中央警察署刑事課、京都府警察本部捜査第一課特別捜査対策室においてもマイペースっぷりは変わりません。同じく異動した科捜研の村木さんを毎回振り回す空気を読まないあたりもASDらしく、また『科捜研の女』“榊マリコ”と通底するものを感じます(笑)

糸村さんがこだわる遺留品は事件の真相を暴くというより、加害者や被害者、あるいは被害者家族や関係者の誤解やスレ違いを「僕に3分だけ時間をください」と頼んで、彼らの誤解やスレ違った思いを解きほぐしていきます。そのおかげで、切ない中にも心温まる思いになります。

職業柄か、ドラマや映画を観るにも“特性”“認知”が気になってなかなか純粋に内容を楽しめません(笑)電車やバスでも些細なことでキレている人を見かけると心理背景が気になりますし、スーパーのレジで喰ってかかっている高齢者を見ると、認知の歪みが気になったりします。

もちろん、息子にムカつく時にはそのムカつきに対し、自分の認知を瞬く間に検証するクセもあります。←メタ認知2021年8月20日2021年8月30日のコラム)。

普段からそうなので、疲れるという自覚はないのですが、案外小さな疲れが澱のように降り積もって心が凝っているのかもしれません。そんな時は普段あまり意識していないその季節独特の空気を味わってみたり、用はなくても友人やパートナーと話をして幸せを感じたり、“猫吸い”したりしています。

皆さんはどのように心のコリをほぐしていますか?

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TVドラマの主人公はアスペだらけ、を個人的に考察してみる【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

熱狂的なファンも多く、長く続いているドラマ。誰もが一度は観たことがあるドラマ。

『相棒』『科捜研の女』『ドクターX』、長く続いているわけではないけれども、クセの強い主人公が活躍する『臨場』。すべてテレビ朝日のドラマなのは偶然ですが(笑)

好き嫌いはともかく、どのドラマにも共通するのが主人公が個性的でなかなかアクの強いキャラクターだということです。

それでは考察していきます。

まずは『相棒』の“杉下右京”。

杉下右京は、間違いなくADHDとの重複がないASD孤立型です。

こだわりの紅茶以外、超論理的思考にズバ抜けた解決力、何もかも私のパートナーと被って仕方ありません(笑)

組織に馴染めず(そもそも馴染む気がない)単独行動を好み、空気は読まない(読めない?)、自分から積極的に他者と関わりを持たず孤立することに孤独を感じず気にもしない右京さん。

「細かいことが気になるのがボクの悪いクセ」と自ら言っているように、人が気にしないような細かい部分に目がいきます。

ASDはよく“木を見て森を見ず”と言われます。まさにその部分です。

ただ、木を見て森が見えないのではなく、多くの定型が森を見てから個々の木〜枝葉にフォーカスしていくのに対し、ASDは枝葉から木を見て、カメラが引くように全体像の森を見る、という感じです。定型とは逆の見方ですね。

それに詳しい上、知能が高く論理的でこだわりは時として行き過ぎてしまう強い正義感と紅茶。

次は『科捜研の女』の“榊マリコ”。

科捜研の研究員や解剖医の風丘先生との空気を読まないやり取りは完全にASDで、捜査一課の土門刑事との関わり方や、人見知りもなく他者との関わりをむしろ楽しんでいるのでASD積極型です。

そもそもマリコ自身、職業が研究員という時点でASDらいしといえばらしいですね(笑)

自室もしっかり片付けてキチッとしており、「ま、いっか」「後でやろう」的なADHD特性はなさそうなので重複なし。

やはり誰も気にしないような細かい部分に目がいきます。納得いくまで自分の考えを検証追求し、妥協がありません。

自分なりの正義を貫こうとするあたり、ずいぶんキャラクターに違いはあるものの、右京さんと同じものを感じますね。

マリコが恵まれているのは、あの強烈な個性(特性)にも関わらず、周りの人たちに恵まれていることで、浮いても皆から温かく見守ってもらえていることでしょうか。それには事件解決という実績が伴っているからだと思いますが(笑)

続きの【2】では『ドクターX』『臨場』を考察します。

占い依存【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

占い依存症の一番の原因は、心の中にある不安感です。

自分の人生やパートナーとの関係などどうなるかわからない不確定な未来への強い不安感から占いを心の拠り所にしてしまうのです。

残念ながら未来のことは誰にもわかりません。占いがなければ不幸になる(今より事態が悪化する)という考えは、ただの思い込みです。

占い依存症になりやすいのは、どのような人達なのか考えていきます。

実は占いに限らず、依存症に陥る人にはいくつかの特徴があることがわかっています。

自分に自信がない(自己肯定感が低い)

占い依存症になりやすい人は、自分に自信がない傾向にあります。自分の考えに自信が持てないので、周囲の人や占いに頼ろうとします。占い師に相談することで、自分(の考えや出そうとしている解)に自信がなくても解決できるという安心感から、繰り返し鑑定を依頼するようになります。

迷いがある時に占い師に道を示してもらえると安心するからです。それがどのように影響するのか?

人任せで自分で考えることがなくなっていくので、判断力が低下し何事に対しても占い結果が最良と考え、占いに依存していくのです。

周囲に相談できる人がいない

腹を割って話せる友人や信頼できる家族など、周囲に相談できる人がいない人も占い依存症に陥りやすくなります。誰かしら信頼できる相談者が近くにいるというのは、非常に心強いものですよね。しかし、周囲に相談できる人がいない人は自分一人で抱え込んでしまいがちなので、すがる思いで占い師に相談します。

誰かに悩みを打ち明けられる、アドバイスがもらえるという安心感から、占い依存症に陥ってしまうと考えられます。

真面目な性格

真面目な性格の人も占い依存症になりやすい傾向があります。ストレスや不安を溜め込みやすい真面目な人が不安な生活から目を背けたい、今より良くなりたいという気持ちから占いにのめり込んでしまいます。また、真面目な人は占い結果や占い師のアドバイスをそのまま信じ込みやすい傾向にあります。

占ってもらった結果どおりに行動しているうちに、占ってもらわないと精神的に落ち着かない不安定な状況になっていきます。

ただ、だからといって不真面目を推奨しているわけではないので誤解しないでくださいね。

スピリチュアルを信じる

スピリチュアルを信じる人も占い依存症に陥りやすいです。占いには血液型や生年月日から鑑定するものから、トランプ、タロット、オーラ占いなど直感的な占い方法などさまざまな種類があります。直感的な占いはスピリチュアルを信じる人がハマりやすい傾向があります。

自分の性格や悩みを言い当てられたことで『霊的な力がある!』と思いハマっていくのです。スピリチュアルや占いを信じることは悪いことではないと思っていますが、まずは自分の気持ちや考えを大切に考えて行動しましょう。

ストレスが溜まっている

これは誰もが当てはまることですが、日頃ストレスが溜まっている人も占い依存症に陥りやすい人の特徴です。ストレス耐性が低い人、普段から人間関係や仕事、恋愛など日常的に不安や不満を抱え込んでしまいがちです。

日頃の不安や不満を解消する手段として占いを利用するのです。

占い師に相談することで気分がスッキリし、自分で考えなくても占い師からアドバイスをもらえます。何度も利用するうちに盲信的になり、占い依存症に陥っていたということも少なくありません。

如何でしたか?もちろんこれらは絶対ではなく傾向なので、皆がみな、そうだと言っているのではありません。しかし誰もが陥る可能性があることは理解できると思います。これらのことを意識するのと意識しないのとでは大きく違うので、依存症にならないために意識してもらえたらと思います。占いをしてもらっても、支配されないように心がけたいものですね。

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占い依存【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回はたいていの人は一度はやったことがあるであろう占いについてです。占いの歴史は古く、実にさまざまな種類がありますね。

ここでは依存について書こうと思います。どこからが“依存”と言うのか医学的に明確なラインはありませんが、生活の中の些細な判断も自分でできず/せず(不安で)、すぐに占いに頼る状態は、明らかに“依存”と言えます。

そうなると【自分で考える<占い】になってしまい、占い(占い師?)を過剰に信頼し、占いがないと不安になります。

占い依存症の人はラッキーグッズと言われるものをわざわざ購入して身につけたり、自分の望む結果(望む結果に近いもの)が出るまで、あちこちの占い師の元に通うジプシーになってしまいがちです。

占いに限らず、どんな依存症にも言えることですが、

依存症は誰でも陥る可能性があります。

興味本位で占ってもらったことがきっかけで、いつの間にか依存(それがないと不安になる、落ち着かない)してしまうのが占い依存症の怖さです。

占いに依存することで起きる危険性とは何か?

判断力が低下する
占いに依存すると無意識に何事も占い結果で判断しようとするために、他者任せになりがちで判断力が低下します。

生活の中の些細な迷いすら占いに頼ってしまうことが増え、結果、自分で考え判断する(その決断や結果に責任を負う)機能が衰えてきます。私自身はまったく占いなど信じない夢のないタイプですが、占いを必ずしも悪とは思っていません。しかし、自分の行動を占いで決めてしまうのは止めたほうがよいでしょう。未来の不安を少しでも解消したい、占ってもらわないと心配で不幸になってしまうという思い込みという心理状態から、ますます占いにはまり込んでいくのです。

また経営者のほうが一般の会社員より占いに頼る人は多いと想像します。重大な経営判断をしなければならない時、背中を押してもらいたい気持ちがあるからです。トップの人ほどお抱えの占い師がいることも珍しくありません。ただ判断力や直感力を鈍らせない参考程度にしてもらいたいものですね。
人間関係の悪化を招く可能性
占い師の発言がすべて正しい(私のためを考えてくれている!)と考えてしまい、家族や友人などの周りの意見は二の次になります。

これにスピリチュアルまで加わるともう手に負えません。その結果、心配して一緒に考えてくれていた人達は徐々に離れていってしまうのです。離れないまでも「どうせこの人に何を言っても無駄だよね」とどこかで諦めの感情を抱いてしまうようになります。私はこれで友人を一人失いました。恋は盲目と言いますが、占いも人を盲目にさせると言えます。

次回は占い依存に陥ってしまう人の心理をみていきます。

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他者理解/他者尊重のために意識してみましょう。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

11月になり今年も残り2ヶ月となってしまいましたね、如何お過ごしでしょうか。

何度かコラムでも書いていますが、人はわざわざ意識しなければさまざまなバイアス(無意識な歪んだ捉えからのクセ)に影響を受けまくって生活している生き物です。

例えば、

  • 男性は浮気をする生き物。←しない人もいますし実際に知っています。
  • 女性は甘いものやフルーツが好きだよね。←私は果物が大嫌いです。
  • 普通はみんな〇〇するよね(〇〇しないでしょ)。
  • 普通は〇〇なんて考えないでしょ。
  • 普通言わないよね。
  • みんなスポーツ好きでしょ。
  • オリンピック(ワールドカップ)見ないなんて(興味がないなんて)信じられない・・・。 

などなど。

“普通”・・・何を基準に普通と言っているのでしょうか?

“みんな”・・・どこにいる誰を指して“みんな”と言っているのでしょうか?

“普通”“みんな”は全部あなたの中にある歪んだ考え方、一方方向からの見方や価値観に基づいていませんか?

現代社会の常識に照らし合わせた時に、あまりに非常識である場合は私も「普通わかるよね」と使う場合がありますが。

例えば、誰かの連絡先を本人に確認/了承を取らずに他者に教える、本人の了承を取らずにSN Sなどに画像をアップする、どう使われるかわからないのに顔写真やプライバシーに関わることをよく知りもしない他者に漏らす、などがあります。自他を守るために意識しなくてはいけないネットリテラシーと言われる部分でもありますね。

上記でもない限り、“普通”はあなたの中にある普通であり、“みんな”はあなたが知る範囲でのみんなということになります。

倒れている人が居たら助けるのは当たり前だよね。

その考えは当たり前ですか?義務ではありませんが人道的に考えれば助けたほうがいいでしょう。では、具体的に“助ける”とはどこまでを助けると考えていますか?

  • 助け起こしてできる処置があればする(AEDなど救命処置)。
  • 意識があれば連絡先を聞き、そこに連絡する。
  • 警察を呼ぶ。
  • 救急車を呼ぶ(必要かわからないが倒れてたから)

このどれもが“助ける”行為に繋がっています。

倒れている人がいれば駆け寄って助ける←これがあなたの常識だったとしましょう。

どのようなトラブル(感染症なども含む)に巻き込まれるかわからないので、さまざまなリスクを考え、一旦退き警察や救急車に連絡する“だけ”の人に対して「普通助けるでしょ!」と考えるでしょうか。

知識のあるメディカル/コメディカルであれば、バイタルを確認して外傷など調べ骨折部位があれば添え木をして固定するくらいはやるかもしれません。

しかし、ほとんどの人は足がすくみ動けなくなってしまうか、救急車を呼ぶぐらいしかできないと思います。

このように“助ける”行為ひとつとっても人それぞれの考え方があり、人それぞれの行動があるものです。

あなたのバイアスはどこにありますか?その捉え方や考え方は“あなたの考える普通”ではありませんか?

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カサンドラ愛情剥奪症候群とアスペルガーについての交流会を兼ねた勉強会にパートナーと参加してきました【後篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は前回に引き続き標題にあるとおり、ASD当事者であるパートナーがどう感じたのかをインタビュー形式で聞き取ってみたので、それを書きたいと思います。

質問は全部で4つです。

1)私以外とはカサンドラ当事者のいる勉強会や交流会に参加したことはなかったと思うが、実際に参加してみてどうだったか?

最初は“ASDバッシングの連中の集まり”と思っていたから警戒感しかなかったが、今回の勉強会の参加者の人たちに限っては、バッシングするような人たちではなかったので、徐々に警戒感がなくなり最終的に安心感があった。それから、参加していたカサンドラ当事者の人たちは、ASDを理解したい気持ちはあるものの、それができないもどかしさと、いつの間にか自分基準の考えや感情を押し付け、それに応えてくれない相手に苛立つ気持ちが同居している印象を受けた。常にそれらが彼らの中で二律背反しているんだろうな、と思った。

2)今回ASD(ほとんどはADHDと重複)当事者とも話をする機会があったが、自分以外の当事者と話をしてみて思ったこと、考えたことは?

率直に思ったのは、こういうASDもいるのか、ということ。ASDというベースは同じだからか、彼らの話の中で共感や理解できる部分、自分にも思い当たる部分はあった。ただ決定的に自分とは違うなと思ったのは、今までの人間関係や恋愛関係で自分が思い至らないせいで相手の気持ちを理解できず、結果として相手を傷つけてしまったと悩み、自信喪失すらなっているように見えたことだ。自分は孤立型のせいか、そういうふうには考えないから、その点で悩んだこともなければ自信喪失になったことがないだけに、それはそれでツラいだろうなと思った。

3)途中でワークがあって定型(たぶん)と思われるカサンドラ側の意見も聞いたと思うが、重複のないASD孤立型としてどう感じたのかを聞きたい。

面倒くさいな、が第一印象。言っていることは理解できる。同時にカサンドラ側の思考回路とは明らかに違うことを実感した。自分の思考回路はというと、どうしようもないことに対しては諦め、少しでもそれを癒すような、あるいは和らげるような解決策を考える思考回路。対してカサンドラ側のそれは、どうしようもないものに対して何か抗いたい気持ちがあると感じた。ASD的思考はその部分がない。だからその抗いたい気持ちに共感しにくいのかもしれない。カサンドラ側の抗いたい気持ちの言動に、一度共感することがどこか“手続き”のような気がしたから、面倒くさいと思ったのかもしれない。

4)私も元カサンドラだが、現在私と上手くいっているのはなぜだと思うか?

君がカサンドラ状態の時は、あたかもこっちが加害者だと言われているようで不愉快だった。そんな時期を経て思うのは、基本的にはお互い様なことだけれども、あえて言えば、君がカサンドラを脱して以降、適度な距離感を体得したからなのか、それとも適度な距離感を体得したからカサンドラを脱したのか、いずれにしても『適度な距離感の体得』なしでは今はないと想像する。それと結果論になるが、ASDにもいろいろなタイプがいる中で、自分はたまたま君の受容範囲内のASDであったこともあるかもしれない。同じASDでも君の受容範囲を逸脱したASDも存在するだろうから。その他の要因としては、互いにネコを飼っているというのも意外と大きいと思料される。

一緒に参加した勉強会&交流会のパートナーへのインタビューでしたが、「カサンドラ脱却のヒントは両者共が(ここ非常に重要)認知の違いを理解し、受け止めていこうとする努力と、何より深い愛情が必要で、それがなければASDと定型の間に横たわる乗り越えなきゃ(上手く)いかない深くて暗い河は乗り越えられないんだろうな」という感想を持ちました。

深刻なカサンドラ状態は脱しても、日々の暮らしの中でモヤモヤイライラを積み重ね、心的疲労が重なってしまいがちな大切な友人もいます。私にできるのは、その友人の愚痴袋がパンパンに重たくなる前に話を聴くことしかできないのがもどかしいところです。

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カサンドラ愛情剥奪症候群とアスペルガーについての交流会を兼ねた勉強会にパートナーと参加してきました【前篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

発達障害、カサンドラという言葉もずいぶん市民権を得てきましたね。

今は完全に離脱していますが、私自身も過去カサンドラ状態に陥った経験があります。コラムでも何度か書いているとおり、息子はADHDがある重複、パートナーは重複なしのASD孤立型です。

紆余曲折ありましたが、確定診断はなくともパートナー自身ASD孤立型であることを自覚していますから、今回の会に一緒に参加しました。

ご自身もグレーゾーンでカサンドラ状態に陥った経験もある方が主催者で、当日ASD当事者、カサンドラ当事者が15人ほど集まりました。私が参加したのはカサンドラ状態真っ只中の人に対し、数少ないカサンドラ完全脱却組で且つ専門家であり、支援者という特殊な立場から微力ながら力になることができるのではないか?という理由からです。

カサンドラ、ASDどちらも当事者会というのは星の数ほど存在するのですが、“互いを理解し合い、尊重しながら共存を目指す”ことを目的に両者とも参加を認めて開催される会は少ないのが実情です。

情緒的な交わりが難しく、独特の認知やコミュニケーションスタイルを持つASDに振り回され傷つけられていると感じているカサンドラ側は、最初のうちはその苦しさから攻撃的になる人も多く、そのような場にASD本人を参加させればどうなるのか火を見るより明らかです。

理解したいのに理解できない、理解しようと頑張っているのは自分だけ、いつも一人ぼっちで孤独、誰にもわかってもらえない、パートナーが自分勝手過ぎる・・・そんな思いを抱えて一人で苦しんでいれば苦しみのあまり、初めは攻撃的になる人がいても仕方ありません。

今回参加した会は攻撃的な段階を過ぎ、次のステップに行くために悩んでいたり、より理解を深めたいカサンドラの人ばかりが参加していたせいか、感情を爆発させ攻撃的な言動を発する人は誰もおらず、終始穏やかな時間でした。

カサンドラテーブル×2、ASD当事者テーブル(私はこちらにいました)×1で、私のいたテーブルはパートナーを含め4人がASD当事者でした。

ASDやカサンドラについてのミニ勉強会のあと、フリーテーマで交流をしミニワーク、そしてテーマを決めてテーブルを移動しフリートークという流れでした。

ざっくりASDと言ってもさまざまなタイプがあり、その人それぞれの性格まで考えると十人十色、特性に共通項があっても濃淡もあることから誰一人として同じASDの人はいません。おまけにほとんどのASDの人はADHDやLDなども重複しているので、ますます問題が複雑化しています。

タイプが違えばアプローチも違い、特性の濃淡でもずいぶん変わってきます。

同じようにカサンドラ状態に陥っている人にもツラさは同じでも、性格+幾つかのタイプがあるように感じています。

ASDで日本人に多いのは受動型重複ですが、パートナーは極めて少ないASD孤立型でADHD要素はまったくありません。重複していると「それASDの特性だよね、そっちはADHDの衝動性からきているもの」のようにあちこちに散らばる困り感への対応が変わってくるため、ひと言で「この人アスペ」と言えないケースがほとんどです。

多くの発達障害を持つ人と関わってきましたが、重複なしの純粋(?)ASDはパートナーを含め2人だけでした。

孤立型は自身で困り感を感じていない(他者への関心が極めて薄く、積極的に関わりを持ちたい欲求はほとんどありません)ので、交流会に自分から参加することはまずありません。パートナーも私がいなければ絶対に出向かないそうです(笑)

次回は参加したパートナーがどのように感じたのかを話してもらいたいと思っています。

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自己肯定感と自己有用感

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

“自尊感情”とは自己に対して肯定的な評価を抱いている状態で、心理学ではSelfesteemといいます。

現在は日本でも広く“自己肯定感”として使われ、一般的な言葉になっています。

『自己有用感』とは・・・?

『自己有用感』とは、他者の役に立った、他者に喜んでもらえた・・・など、自分以外の他者が存在しなければ生まれてこない感情で、『自尊感情』や『自己肯定感』とは多少異なります。

自分に対する他者からの評価が中心で、最終的には自己評価があるにせよ、他者評価を強く感じた上で生まれる感情だという点がポイントになります。

単に「部内で営業成績が一番だ」という自信からくるものではなく、「部内で営業成績が良かったので、全国営業コンテストに推薦された。この営業所のためにぜひ頑張りたい」という自信です。

そういう意味では「部内で営業成績が一番」かどうかは、さほど重要ではなくなっていると思いませんか?

『自己有用感』の獲得が『自尊感情』に繋がるであろうことは容易に想像できますよね。しかし、『自尊感情』が高いことが必ずしも『自己有用感』の高さと一致するとは限りません。

他者の存在を前提としない自己評価は社会性に結びつくとは限らず、社会性を前提とした場合、『自己有用感』に裏付けられた『自尊感情』が大切になります。もちろん、自分自身が自分を肯定的に認めることは、とても大切なことですが。

【褒めること】と【認めること】

両者の違いをよくわかっていない人は案外多いのではないでしょうか。

結果に対し望んでいたことに達していた、結果が良ければ評価する、これが褒めるです。「認めてあげようと思って褒めている」「褒めることは、そのまま認めること」という感覚なのではないでしょうか。

また多くの人たちもそのように受け止めているでしょう。誰しも自分を「褒めてほしい」と思っていて、それは承認欲求という形で表れます。一般に一定の水準に達した、水準を超えたと評価するのが「褒める」という行為と言えます。反対に言えば、水準に達しない場合には「頑張りましょう」と激励することはあっても“褒める”ことは稀ではないでしょうか。

子供が「認めてもらいたい」時というのは子供の基準や水準で「褒められたい」ことがほとんどで、子供なりのこだわりで努力したり工夫したことを「認められたい」ものです。大人ですら頑張りを認めてほしいのですから、子供では尚のことです。

基準に達していなくても「褒めてほしい」と考えたり、大人の考えた水準に到達して「褒められた」場合でさえ、大人の基準とは異なる子供の基準でも「褒めてほしい」と考えたりするわけです。

なので、自分がさほど努力もしていない、自分の功績ではないことを「よく頑張りましたね」と一括りにして褒められても、さほど嬉しくもなく励みにもならないのです。

子供の実際の行動と向き合うことなく表面的にお世辞を言ったり、ちやほやしても子供の『自己有用感』はもちろん『自尊感情』すら高めないのです。

行事に取り組む、学習に取り組む際などに“子供自身”に目標や工夫する点、努力する点などを考えてもらい、その基準に沿ってどこまで達成できたのかを評価することが「認める」という行為では一番重要になります。

それが『自己有用感』を育みます。

単に良かった・悪かったことだけを評価して「褒める」では『自尊感情』を育むことはできても『自己有用感』を育むことにはなりにくいのです。

例えば、「ふりかえりシート」のようなものを用い、子供の振り返りに対し、ただ「頑張ったね」だけではなく、子供が「こだわった」「見てほしかった」点に着目し、そこに触れたフィードバックをすることが大切です。これは子供に限ったことではありません。

組織、夫婦、パートナーなどとの関係でも言えることなので、今一度【人を認める】とはどういうことかを考えながら振り返ってみる機会にしていただければと思います。

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命のせんたく

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

先日、久しぶりに遠出をしました。泊まったのは鳥取県は大山の麓のホテルでした。

ホテルに着いたのはもう陽が沈んだ午後7時でしたが、ホテルの窓から人家の灯りはもちろん街灯すら見えず、暗闇そのものでした。

翌朝目覚めたのは午前5時半頃だったと思います。

カーテンを開けると、外は夜明け直前で空はうっすらと明るくなっていました。そして目の前にあったのは、大山の見事なシルエットでした。

別名『伯耆富士』と言われているとおり、まるで富士山かと見紛うほど、左右の稜線のシンメトリーが美しい山でした。ホテルの四角い窓が額縁のようで、あたかも一幅の絵画を見ているようでした。

美しい大山のシルエットをしばらく見ていると、左の稜線から太陽が昇ろうとしてきました。大山からの日の出です。

それはそれは力強い朝陽で、まさにダイヤモンドの輝きと言っても過言ではありませんでした。山頂から昇っていれば、間違いなく鳥取のダイヤモンド富士だったことでしょう。『日、出づる国』という言葉が自然と浮かびました。

東京では絶対に見ることができない光景であり、その圧倒的な美しさに言葉もありませんでした。

朝からこのような光景に接するとは思いもしなかったので、驚いたのと同時に心の中で何かが洗われたような感覚になりました。

後で聞いた話ですが、大山は1年の3分の2は大抵雲がかかっており、山の全景がくっきりと見えることはあまりないそうです。幸運にもその日は雲一つない快晴でした。

折しも、11日から全国旅行支援が始まりました。外国人観光客の来日も急増しているようです。

時間を見つけて、あえて命のせんたくに行き、行ったことのない場所へ行くのも悪くないかもしれません。

それは仕事などのモチベーションにも繋がり、充実した日常を過ごすことに繋がる気がします。束の間、日常から非日常に浸ることは、人が生きていく上で案外大切なことかもしれないと実感しました。

というのは、メンタルヘルスに良いということ以上に、五感で体感する未知は、もはやメンタルトレジャーになると思います。上手く言えませんが、個人的には『生き還る』ぐらいの刺激があると思います。

旅は何かモノを所有することではなく、ココロを揺さぶることなのかもしれない。ココロが揺さぶられると、いつのまにか背負ってしまっている日常の重り、あるいは縛られた鎖、そんな無意識な束縛や足かせを解き放つ精神力と勇気が芽生える可能性を秘めていると思うのです。

私の場合、たぶん、それが『生き還る』という感覚を抱かせたのだろうと思います。

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