【身近に潜む鬱】どこに目を向け、何をしてはいけないか

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は身近なメンタルヘルスとして【鬱】を取り上げてみます。

メンタルサポートの原則というものがあります。

それは、大きく4点でその頭文字を取って『TALK』といいます。

Tell ➡︎ “言葉に出して”心配していることを伝える。

Ask ➡︎ 『死にたい』という気持ちについて“率直に尋ねる”

Listen ➡︎ 絶望的な“気持ちを傾聴”する。

Keep safe ➡︎ “安全を確保”する。

です。

すぐに対応や病院受診、カウンセリングなどを考えてほしい例としては、

食欲不振、不眠、体重減少など身体の不調を訴える。

●リストカット、OD(オーバードーズ:薬の過剰摂取)などの自傷行為がある。

●家出、放浪がある。

●自己否定的、悲観的な言葉が多く、死や非現実的なことに関心を持つ。→ 『もうどうでもいい』『消えてなくなりたい』『いつ死んでもいい』『死ぬことは怖くない』『生きていたくない』など。

また、下記のようにやってはいけないこともあります。

▶︎話をそらす。

▶︎一方的に話す(体験談なども)。

▶︎無理やり説得する。

▶︎安易に解決策を示す(相手は自分とは違う他者です)。

▶︎安易に励ます(「誰でもツライんだから」など)。

根性論を持ち出して叱咤激励など、とんでもありません。

例:「気持ちを強く持たないと!」「もっと心を強くしなきゃ」など。

コラムでも何度か書いていますが、【自分以外は親であっても(血は繋がっているが)他者】なので、それぞれ認知が違います。肉体的苦痛の忍耐度に差があるように、

心の強度(敏感度、ストレス耐性)も違う

のです。

あなたにとって『たったそれだけで・・・』と思うことであっても、相手は心がヒリヒリ痛かったり、いろんな積み重ねで気持ちが前向きになれなくなっているのです。

楽しいことの想像はできても、人は自分が経験、体験したこと以上の苦痛や辛さ、悲しみ、絶望感や孤独は想像しづらいもので、我が身に置き換えてすらなかなかその苦しみは想像できません。

「自分は心が強いから鬱になんかならない」、これはハズレです。ストレスの感じ方が違うように、鬱になる、ならないのボーダーラインも違うとういことを頭に置いてください。つまり誰でも鬱になり得るということです。

中には自力回復できるレジリエンス力が高い人もいますが、誰かの支えや専門家が介入することで回復が早くなることもあるので、“適切な支え方”を学ぶために相談窓口や専門家に安心して話をしに、話を聞きに行ってほしいと思います。

いのちの電話”や自治体によって名称はさまざまですが、“心の相談室”“こころの健康センター”などがあります。また厚生労働省では、都道府県や政令指定都市が実施している「心の健康電話相談」の公的な電話相談事業に全国どこからでも同じ番号で通じる

こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556

を運用しています。

“いのちの電話”は、名称は“いのちの電話”になっていますが、とても心が辛い時に傾聴してもらうための電話ですので、『私はまだそこまで・・・』と考えず、周りの人には話せない、独りぼっちだと感じている苦しい時に話を聞いてもらうことで、ラクになりますので利用を考えてみてください。

また、各保健所にも相談窓口がありますし、ほとんどの自治体にも相談窓口が設けてあります。

さらに厚生労働省のホームページには、相談窓口を運営する各種団体の情報がまとめて掲載されています。こちらも参考にしてみてください。

脳科学と認知心理学からみた【記憶】のお話

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は【記憶】についてお話してみようと思います。多少難しいかもしれませんが、改めて『人間の脳って、認知ってスゴいぃ!』と考えるキッカケになればと思います。

【 記 憶 】

皆さんにも馴染みの深い単語だと思います。『記憶力がなくて年号を覚えるのが苦手』や『記憶力が落ちてきた、もう歳かな』などなど、一度は聞いたことも言ったこともあるのではないでしょうか。

さて、この【記憶】、情報処理モデルから考えると、

記銘(符号化)→ 保持(貯蔵)→ 想起(検索)→ 忘却

という処理が脳内でおこなわれています。今回は記憶についてなので、非常に重要な働きをする忘却ですが、敢えて省略したいと思います。

まず最初に、記憶は

【感覚記憶】【短期記憶】【長期記憶】

に分けられることから説明します。

【感覚記憶】 感覚記憶とは、視覚、聴覚、味覚、触覚など感覚器官で受け取った外界情報を一時保持しておくための記憶です。

視覚的な情報(映像記憶)をアイコニックメモリー、聴覚的な情報をエコイックメモリーといい、その記憶は正確ですが、どちらも長くても数秒間しか保持できません。フォトジェニックメモリーという、見たものをそのまま写真のように記憶できる人がいますが稀です。記憶保持時間が短い順に、 感覚記憶<短期記憶<長期記憶 になります。

【短期記憶】
短期記憶とは、最近耳にする機会も増えた【ワーキングメモリー】のことで、作業記憶とも言われます。さまざまな情報を“とりあえず”一時的に保管しておく役割があり、ワーキングメモリーの容量が低いと日常生活や仕事でも至るところで困り感が表れます。電話番号や指示されたいくつかのことを一時的に覚えておく、これがワーキングメモリーです。
【長期記憶】
長期記憶とは、文字どおり長きに渡り残る記憶のことで、陳述記憶(意味記憶とエピソード記憶に分かれる)、非陳述記憶(手続き記憶と情動記憶に分かれる)に分類されます。陳述記憶とは言語化できる記憶で、非陳述記憶は言葉で説明できない記憶です。陳述記憶の<エピソード記憶>とは『夏に友達と銀座のかき氷屋さんに行った』など、体験した主観的エピソードで、意識して記憶しようと思わなくても覚えている記憶で、そのまま(言葉で)伝えることができます。また物事を暗記する場合、暗記した情報は陳述記憶の<意味記憶>に貯蔵されます。
非陳述記憶の<手続き記憶>とは、ピアノが弾ける、ラジオ体操、自転車に乗れるなど、反復訓練することで身に付く記憶のことです。また、感情が絡んだ記憶を<情動記憶>といい、“情動”が思い出(記憶)を作り出します。例えば、家族みんなで行った海でスイカ割り、などがそれに当たります。

次に脳内でおこなわれている情報処理モデルについて説明します。

【記銘】符号化:情報入力された感覚刺激を意味がある情報に交換し、そこに保持するまでの一連の情報処理過程のことで、意味情報に変換できない入力情報は記憶されにくいと言えます。例えば、意味を理解できる日本語は記憶しやすいのですが、意味を理解できない難しい外国語は記憶することが困難、という感じです。

【保持】貯蔵:記銘により変換された意味情報は保持されますが、入力された情報が同じであっても、保持される内容は人によって違う場合もあります。意味情報に変換される際に用いられる持ち合わせた知識が人によって違うためで、入力された情報が削除されたり、付加されたりで起こることが原因です。

【想起】検索:保持されている記憶が取り出されることで、取り出す過程で再生、再認、再構成のいずれかが使われます。この再生、再認、再構成について、もう少し詳しく説明します。

自分では思い出せないけど、手がかりがあれば思い出せることってありますよね。難しい漢字を例にとってみます。

<鬱>うつ。読めますよね。この読めるけど書けない・・・が、再認。<鬱>という漢字を書けて読めて且つ、鬱積、鬱憤など、他の知識に繋げて臨機応変に思い出し、活用できる状態が再構成です。

再認、再生は“知っている”状態、再構成できる段階で初めて“理解している”状態

と言えるのです。この『理解している』と『知っている』を混同して使っている人が多いですよね。

記憶には“先入観”からくるプライミング記憶という、面白い記憶もあります。難しい話が随分長くなってしまったので、今回は端折りますが、気になる方はGoogle先生に聞いてみてください(笑)

ひとり赤提灯:他者目線、どのくらい気になりますか?

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

最近増えたと感じるよく見かける電車内の風景の一つに、帰宅時間帯における【ひとり赤提灯】がいます。ひとり赤提灯とは、山手線や京浜東北線のようなロングシートの通勤電車内で、一人で缶酎ハイや缶ビールを飲んでいる人のことです。

首都圏でも都心から千葉、埼玉、神奈川など郊外方面に向かう電車内でよく見かけるようになりました。帰宅途中のサラリーマンが座って飲む、吊り革に掴まりスウィングしながら飲む、ドア近くで壁に寄り掛かりながら飲む・・・スタイルはいろいろです。

向かい合わせの4人掛けボックスシートで仲間同士ワイワイではなく、2列向かい合わせのロングシートの通勤電車で、とても静かにおとなしく飲んでいます。

酔っ払いが好きではない私は『お疲れさま。家まで遠いのかな、地元の居酒屋までもたなかったのかぁ』とは思います(笑)でも、やたらと声とリアクションの大きいオバサマ軍団、イチャイチャを通り越してもはや公然猥褻レベルのカップル、朝のスッピン乗車からの車内化粧に比べると不快感が少ないのはなぜでしょう(笑)

私も女性なので、1分でも多く寝ていたい朝のメイクの面倒さがわからないわけでもないのですが・・・。リップクリームを塗るくらいならまだしも、いくらなんでも土台から顔面を作り上げるのはやり過ぎに思えます。電車待ちをしながら、器用にホームでメイクしている女性も見かけました。降車する時は別人、ビフォー・アフターです(笑)

人前で恥ずかしげもなく他者を怒鳴り散らす人、車内化粧に熱心な女性、席を占領して寝ている酔っ払いのサラリーマン。走り回る子供を放置してベビーカーを並べておしゃべりに夢中なママたち。そして、やたらイキのいいオバサマたち。

自分に直接関係があり実際に面識のある人や、リアルでお付き合いがない人も多数混じるSNSでは“どう思われるか、見られるか”をとても気にするのに、一方で車内や通りすがりでは、他者にどう映るか気にもしない光景があります。そこは「だって遅刻しそうなんだから車内でメイクするしかないじゃん!」だったり「仲間といるとどうしても楽しくなっちゃって声が大きくなっちゃうのよ〜」「え?子供は元気なものでしょ?言ったって聞かないし、もう少しあたたかく見守ってくれてもいいのに」などなど、言い分はあるようです。

しかし、言動の一貫性の無さと厚顔無恥さの風潮に違和感を覚えるわけです。

セルフモニタリングは何も認知に限った話ではありません。迷惑をかける行為だけでなく、通りすがりの無関係な誰かを不快にさせてしまうかもしれないことに、もう少しだけ敏感になったら、世の中のモヤモヤやイライラが少なくなるのでは?と常日頃から思っています。

何も聖人君子であれ、と言っているわけではなく、

【他人は案外見ているものですよ、その姿】

を意識してみると、立ち居振る舞いが少し品がよくなるように思えるのです。

リア充のフリと歪んだ承認欲求

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ヒトは野生動物にはない、なかなか厄介な感情

【承認欲求】

というものを持っています。

大人になると、子供の時のように“結果が出なくても、その過程にある努力を評価して褒めて(認めて)もらえる”ことは少なくなります。

子供時代にこの【承認欲求】が満たされずに育つと、愛着障害がベースのさまざまな心的問題を抱えたり、歪んだ形で承認欲求を持つ大人に成長してしまうケースがあります。<愛着障害についてはまたの機会に書きますね>

さて、『!?』な動画をバイト先で撮り、ネットに載せてしまうアイタタタ・・・な人がいることはご承知のとおりだと思います。たびたびニュースにもなりました。俗に“バカッター”と呼ばれているようです。

【承認欲求】とひと言でまとめていますが、そこには

社会的に認めてもらいたい、尊敬されたい、褒められたい、すごい!と思われたい、一目置かれたい、羨ましがられたい、などなど

根底にはさまざまな感情がカオスのように渦巻いています。そして、

行き過ぎたその気持ちが歪んだ承認欲求をさらにエスカレートさせてしまう

のです。それが出世、名誉、名声であったり、カッコ良くてお金持ちな彼氏にスタイル抜群で美人な(or可愛い)彼女、次々に買い換えるハイブランドの数々、見栄えのいい高級外車、人より優位に立ちたい気持ち。

SNSで知らない人からもたくさんの“いいね!”が欲しい!、『羨ましい!』という反応が欲しい欲求。ユーチューブやツイッター、インスタグラムで良くも悪くも『凄い!』と言われたい、思われたい・・・。

SNSで“リア充アピール”をしたいためだけに、ハイブランドの持ち物を次々と購入して画像をアップし、すぐに手放す人。まるで所有者は自分!であるかのように、停めてある高級外車の横で撮影しSNSにアップする人。あたかもお付き合いしている人がいるように見せたくて、レンタル彼氏・レンタル彼女業者を利用し(ビジネスですからもちろん料金は掛かります)、「ラブラブデートしてます!」とリア充アピールをする人。もちろん、利用者すべてがこうした【承認欲求】を満たす人ばかりではありませんが。

適切な【承認欲求】は、それが叶えられることで自己肯定感に繋がるのですが、不適切な【承認欲求】は周りの迷惑や他者の不快感を呼ぶ場合もありますし、なによりも自分のカブを下げることになります。

【承認欲求】が“ええカッコしい”になり、行動として表れた時に【助手席に彼女を乗せている時の煽り運転】に繋がることもあります。もちろん煽り運転をする心理は、歪んだ承認欲求だけではなく、さまざまな不満やパーソナリティーに問題を抱えているケースがほとんどですが。

日本人は気質的に他者評価を気にするあまり、自分で自分を承認できる人が少ないように思います。謙遜が美徳とされるお国柄だからでしょうか。

頑張っている今の自分を『まだまだだ!』と認めず、さらなるハッパをかけることはよくあることではないでしょうか。しかし、

まずは自分を認めること

です。『まだここまでしかできてなくて、志半ばではあるけど、今日の自分は十分努力した』を自分で振り返り、気付き、『ここまで頑張ったぞ!』にも目を向けてほしいのです。

知り合う人によくする話として、

寝る前に布団に入ってから今日の自分を振り返り、3つ褒めてみませんか?

があります。

時間がある時でよく、お風呂に浸かりながら、帰宅途中の電車内、次の日の朝食中でも、いつでも構いません。ただ、リラックスしている時間のほうが効果的なので「寝る前に」と話しているに過ぎませんから。だって、振り返りながら

そのまま寝てしまってもいい

のです。そこに「あー、寝ちゃってできなかったー」「明日はちゃんとやらなきゃ」と

反省する必要もない

のです。最初は当たり前の毎日を当たり前に送る自分に『わざわざ褒めることしてないし、頑張れなかったことのほうが多いし・・・うーん・・・』という人がほとんどです。

いいのです、小さな小さなことで。

例えば、いつもギリギリに飛び出して駅まで走っている人が、いつもより5分早く出たから駅まで走らずに済んだ、普段奥さんに「おはよう」すら言わないけど今朝は「おはよう」と声をかけた、部長に頼まれ事をされると『うっせーよ、ハゲ!』と心で毒づいていたけど、今日は『はいはい、あーもうしょーがないなー』と思っただけだった、という具合に、ほんのわずかなことでいいと思ったらどうでしょう。

案外【自分褒めポイント】はあるものでしょ?

日々反省・・・これも大事ではあります。反省する場面なんて、社会生活を送っているとザクザクあるものですが、自分を褒める場面なんてないのです。あえて“自分自身で(わずかな頑張りを)認めて(頑張ったことを)褒める”ことに意識を向ける、これを続けてみることが自己肯定感に繋がっていくのです。

以前のコラムでも【ストレス】の項で【自分自身が自分の一番のサポーター】と書きました。サポーターとして自分と向き合うコツの一つが

自分を認め、褒めてみましょう

です。日記にするでもなく、誰にも聞かせる必要もなく、あなたたった一人だけの内緒の時間です。人に言うには小っ恥ずかしく、つまらない、くだらない小さなことだと思ってしまいがちなことを『たったこんなことなんて』などと思わず、それこそ恥ずかしくなるくらい褒めてください。そこに評価や感想はいらないのです。

アンコンシャスバイアス:思い込みの罠

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

いきなりですが、あなたには下の図が何に見えるでしょうか?

多くの人は【黒い背景に白い盃】のように見えると思います。しかし、眺めていると【向き合った二人の顔】にも見えてきませんか?

二つの見え方を比べてみると、【黒い背景に白い盃】【白い背景に向き合う二人の黒い顔】というように、白と黒のどちらを主体的に見るかでまったく異なる形に見えてきます。

この現象を【図一地反転】といい、見方によって異なる形に見えるものを【多義図形(反転図形)】と呼びます。また、見えていた盃が顔の形に見えてくると、盃は姿を消してしまい、両者を同時に見ることはできません。

この“ルビンの盃”と呼ばれる絵は、実は何の絵でもなく無意味な線の集合です。それが意味を持ち図形(絵)として意味づけされるのは、大脳での処理の結果なのです。

私たちの【見る】という働きは、刺激を固定的、普遍的に取り込み、それだけで明確に判断できなければ主観的なイメージが大きく作用します。

多義図形がどう見えるかは

見る人のその時の心的な構え、期待、関心、注意、欲求などさまざまな要因

によって左右されます。

アンコンシャスバイアス(思い込み)などによる他者との意見の食い違いやズレはこんなところからも生まれ、対人関係にヒビが入ることもあるのです。

自分には自分の視点、他者には他社の視点があり、それぞれ認知も違うということを、

あえて意識する、

これが大切です。

『自分はそうじゃない(そうは思わない)から、他者もきっとそう思わないだろう(思わないに違いない、思わないに決まっている)』という“(経験則からくる)自分常識”は、実はとても危険な考えで、カチコチに固まった偏った認知になっています。

私はフルーツやほとんどのスイーツは苦手なのですが、大概、「美味しいのに何で食べないの?」「変わってる」「女性は普通、スイーツ好きなものでしょ?」や、しまいには「好き嫌い多いよね」というトンチンカンな反応に遭うことがあります。

“女性はフルーツが好き、スイーツが好き”という『(女性ならば)自分もそうだし、大多数はそうだろう』というアンコンシャスバイアスからきていますよね。

なぜフルーツが苦手だから食べないというだけで「変わってる」と言われ、しまいには「好き嫌いが多い」と言われなければならないのか謎です(笑)

ピーマンが嫌い、ニンジンは食べられない、中華はちょっと・・・と言っているならまだしも、フルーツになると「好き嫌いが多い」と決めつけられる・・・不快にはなりませんが『そんな認知しか持てないなんてカワイソウな人・・・』になります。

知らず知らずに陥っている罠、それがアンコンシャスバイアスです。

無意識にあえて意識を向けることで気づけることもありますので、ぜひ心掛けてみてください。

パートナーはASD<連載③>:【アスペルガー受容編】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連載①ではパートナーがアスペルガーである疑惑から、違和感を膨らませていく中でのエピソードや繰り返されるバトルを書き、連載②ではパートナーがアスペルガーであることから感情の交わし合いができず、カサンドラ状態に陥っていったことをエピソードを交えて書きました。

連載最終回となる今回は、パートナー本人に聞き取りをしながら、当時の荒れた気持ちからどのような経過を辿り、受容に至ったのかを書いていきたいと思います。

今だから聞けること、聞いてみたい当時の気持ちの移り変わりなど、本人に確認しながら書いていきたいと思います。

私がいきなりASDの書籍を送り付けたことから、パートナーの激しい拒絶が始まりました。以下は私がパートナーに聞き取った内容です。

——まずはその時(本を送った時)の感情や気持ちから聞いてみたい。

あれはまったく意味がわからなかった。嫌がらせかと。自分は健常者として当たり前のように生きてきたところに、突然『障害者』扱いされた。もう嫌悪感と拒絶感から憎悪一色になった。百歩譲って自分だけに対する“悪口”ならまだいいが、それを超え間接的に親への侮辱とも感じ、殺意すら覚えた。

——それで連絡を取り合えていなかった間、どうしていたか、その時の心境は?

親にはもちろん、友人にも話すには憎悪があまりにも激しく、しばらくうまく言葉にできない状態が続いた。自分の中で君への憎悪と殺意、ASDへの嫌悪と拒絶がグチャグチャになって、とても整理できる状態ではなかったから。
ある程度落ち着いた段階で、気晴らしによく飲みにいく店に行き、そこのコに話してみたら、あっけらかんと自分もASDだと言ってきた。拍子抜けしつつも、少し安心感を覚えた。そのコからはASDに対し肯定的な話を少し聞いたが、それでもまだ拒否感のほうが強かった。

——そのコと話した後も何も変化はないと?

とりあえず君への憎悪と殺意が少し和らいだ程度。受容なんてまったく考えられず、まだ程遠い状態。ただ店のコが言っていたことを確認するつもりで、君から送り付けられた本をパラパラ適当にめくり、“障害ではなく個性”という表現を見つけ『ふ〜ん』という印象はあった。
この時期は君からの電話はもちろんメールも一切返さず、ノーリアクションを貫いた。憎悪と殺意が再燃しかねないから。
2ヶ月ほど経つ頃には君からの連絡も来なくなり、自分の中では君との関係は終わっていて、少しホッとしていた。

——確かに途中から私も連絡をしないようにしていた。でもある時電話したら出てくれたのは?

メールではなく唐突に電話があったことと今までかかってきたことのない時間だったことから、どうもイヤな予感がした。別れ話とか、そういう類ではなくて、緊急事態のほうのイヤな予感。それでも電話に出るか躊躇したが、もし緊急事態なら人として無視するのはどうかという良心の呵責があって仕方なく出た。

——それからまた連絡が取れるようになった。

ただそれは二人の関係の修復ではなく、その緊急事態の対応策について飽くまでも“人として”話し合っている感覚。だから“元カノ”感覚で慈善事業みたいなものだった。その時には憎悪と殺意はもうなくなっていた。そのせいか『そういえば、こんなの送り付けてきたっけな』と、送り付けられた本を他人事のように軽く立ち読みする感覚で読んでみたりしていた。

——パラパラ読みから立ち読み程度でも読んでみたわけね。

雑誌感覚で他人事として。読んでみるとその中に書かれていた特性に自分に思い当たる部分があった。それを踏まえて、以前話をしていた店のコに改めて話をした。その時は愚痴としてではなく時事ネタのように話し、実際ASDでもあるそのコから肯定的なことをいろいろ聞けたことで、ASDについて考え方や見方が軟化した気がした。

——その後はどういう変化を辿った?

日が経つにつれ、誰がどうではなく、なにより親には一切責任がないことが最大の安心材料となり、ある意味冷静に自分がASDであるかどうかを自問自答するようになった。店のコとはその後もASDについてのやり取りは数回続き、いろいろと話す中で、気持ちに余裕ができたと言っていいかわからないが、ようやくASDについて詳しく知ってみるか・・・と思えるようになった。

それまでは私は『ASD』『アスペルガー』『発達障害』というワードはパートナーに対してNGにしており(自主規制)、会話の主たるものは緊急事態に対する対応策のままだった。

——2年以上経ってから、あなたからASDというワードを出してきた。思ってもみなかっただけに思わず耳を疑った。

そうだろう、自分でも自分から口にする時が来るなんて思ってもみなかった。ただ、たまたま君が素人ではなく臨床心理士という専門家だったことが大きい。身近な専門家として、ASDについて自分のどこを観て定型と言われる人と違うと思ったのかを聞いてみたくなった。

——私がもし臨床心理士でなかったら?

もちろん聞いてない。その場合、よく知っているのかもしれないが所詮素人だから。ましてや、そのへんにいる“ハッピーなんちゃらカウンセラー”とか、よくわからない認定証をいくつも並べ立てている“自称心理カウンセラー”なんて論外。エビデンスが極めて怪しく、胡散臭過ぎる。中途半端な知識で専門家風を装ったタチの悪い素人に過ぎない。だからASDがどういうものかなんて絶対わかりっこないだろうと・・・。
そういう点で客観的に考えた時、国立の研究機関にいて科学的なエビデンスと学問的・専門的知見があり、医療機関での実務経験もある臨床心理士という人が君だったことはラッキーだったと思う。

——なるほど(笑)それで定型と違うところを聞いて思ったことは?

確かに『なるほど』と思うところはあった。ただ、生きづらさを感じている人が多い、ということについては自分にはピンと来なかった。なぜなら、思い通りの生き方をしている人なんてほぼいないと思っているし、そもそも生きること自体が生きづらいもの、と思っていたから。
世の中は世知辛い、とか、人生は修行だ、という話も耳にするし・・・また仏教(特に浄土真宗)に興味を持ったことも重なって、自分だけが生きづらいのではなく、皆大なり小なり何らかの悩みを抱えながら生きづらさを感じて生きているものだろうと思っていた。

——なるほど。それで、そうした思いから受容したのはどのタイミングだった?

その前に今までと、今なお自分の身に起きる独特の現象について、改めて思い返してみた。それは、
▷窮地に陥った時の、動悸と同時に吹き出る汗、目眩を伴う発作的なパニック状態。
▷極度な憂鬱感や焦燥感からの激しい落ち込み。
▷深刻な不安からの無気力状態と強烈な喪失感。
▷子供の頃から初対面の人と接することへの抵抗感と憂鬱感。
▷怒りや強い不愉快の感情を消化するまで時間を要する。
などは性格ではなく、ASDの特性がそうさせていたとわかり腑に落ちた。
なにより受容の決定打となったのは、意外にも数字へのこだわりだった。昔から数字には人と比べて『なんかヘンなこだわりがあるな』と自覚はしていたが、それは単に、趣味が数学だった中高生時代の名残としか思っていなかった。それだけに、実際にはそれはASDのこだわりという部分の典型的な特性だ、と知った時は『これはもう受け入れざるを得ないな・・・』と思った。

——受け入れざるを得ない(笑)、それで受け入れた後の気持ちは?例えばラクになったとか苦しくなったとか・・・

ラクになったという意味では、人格的に欠陥があるとか、性格的なものではない部分からの現象があると知り、開き直れるようになったかもしれない。例えば『初対面の人と接することは大の苦手だけど克服しなければ』と長年悩んでいたが、悩むことを止めた。だからと言って、今でもそういう場所に行くとなると憂鬱になるし、初対面の人とばかり接すると気が滅入るぐらい消耗して、とてつもなく疲れて毎回途中で帰りたくなることは変わらない。
受け入れて改めて苦しくなったことはない。ただASDの特性がなくなって、いわゆる定型になったわけではないから、定型を基準にした世の中はある意味窮屈だし、定型的な人達の考え方にイラっとしたり、もどかしさを感じる時はある。ダイバーシティーと言うなら、発達障害とか定型とか関係なく、生きやすい世の中になってほしいものだ。

以上が、パートナーが受容に至った気持ちの変遷でした。最後は降参(笑)するように受容したようでしたが、ラクになった点があったことは意味があったと思います。余談として「定型は共感が必要だの空気読めだの面倒くさいことばっかり求めて、俺から見れば定型こそ定型障害だ(笑)」と言っていました。言われてみればASDの視点で定型(あるいは定型を基準とした社会)がどう見えるかをあまり考えたことはなかったな、とちょっぴり反省(笑)

数年の中でパートナーの私に対する私が起こした行動への嫌悪から拒絶、憎悪・殺意、空白、変容、軟化、関心、受容という変化を遂げながら、今の私とパートナーの関係があります。

感情的な行き違いが完全になくなったとは言えない中で、以前より格段に良い関係が築けている理由として、パートナーにあるASDの特性や特徴を人なら誰もが持つ得手、不得手に過ぎない、と肯定的に捉えていること、

【ショウ“ガイ”(障害)】という認識はまったくなく、個々人の【チ“ガイ”(違い)】と考えている

ことにあります。まだまだ理解に至らない部分も、時間をかけて理解に繋げたいと思っている自分がいます。

もうバトルになることはありませんし、カサンドラに戻ることもありません。これは私だけの努力ではなく、意識はしていないのかもしれませんが、パートナー自身の努力もとても大きかったと感じています。

パートナーはASD<連載②>:【カサンドラ愛情剥奪症候群編】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連載2回目は<カサンドラ愛情剥奪症候群>についてお話します。

まず最初に、

私は日常起こるさまざまな負の感情に折り合いをつけることや気持ちの着地点を見つけることも時間が掛からず、ストレス状態からのリカバーも、イライラすることも少ないメンタル状態が安定しているタイプです。それだけに

まさか、そんな自分がカサンドラ愛情剥奪症候群になるとは思いもしませんでした。

さて、カサンドラ愛情剥奪症候群ですが、症候群と付いていても、実際にカサンドラ愛情剥奪症候群という医学的な正式名称はありません。カサンドラ愛情剥奪症候群とは病名ではなく、共感されず感情的な交わし合いができないことにより起こるさまざまな表れ方の【症状】をまとめたものと言えます。

私に表れた症状は、

<身体的>
不眠・過食・激しい体重変動・胃潰瘍

<精神的>
絶望感と強い孤独感・自己否定感情の増加・認知の歪み・解離

です。

私の場合、パートナーが【ASD孤立型】ということもあり、【人よりモノ(あるいは事象)に対して関心がある】【共感がなく感情の交流や気持ちに寄り添ってもらえない】【白黒思考で極端な認知の偏りがあり、行き違いが起こりやすい】という特徴から表れた症状でした。

しかし、必ずしもパートナーがアスペルガーでなくてもカサンドラ症状は起こるのです。認知の違いやコミュニケーションのズレ、スムーズにコミュニケーションが取れないため、誤解を生みやすい。また【感情の交わし合いや寄り添い、共感が得られないこと】が大きな原因です。

それはパートナー関係だけでなく、親子間、場所が職場なら同僚や上司部下の関係であっても起こり得るものなのです。

私のパートナーは繊細で傷つきやすい反面、とても頭が切れる人で聡明です。問題解決力も突き抜けて高く、そして正直。曲がったことが大嫌いで嘘をつきません。見た目は怖いのですが(第一印象はマフィアです(笑))。ひと言で言い表すと【孤高の人】です。

マフィアはともかく、前記の部分だけを見ると誠実で何の問題もないように思えます。ただ、アスペルガーの特性から『今の相手の気持ちを考えたら、この言い方(内容)だと嫌な気分になってしまうかも → だから気持ちを考えて思っていることそのままじゃなくて、配慮した言い方(内容に変えよう)にしよう』の部分が薄かったり、そもそもなかったりするので(想像力の欠如)、思ったことを思ったままの言葉で表出します。

言っていることがいくら正しいことであっても、これは時としてとても無神経で相手を傷つけ、まるで気遣いがないかのように映ります。実際「そんなこと言わなくても・・・悲しくなる」と話をしたところ、返ってきた言葉は

「俺は思ったことも言っちゃいけないのか、何も言えなくなる」「俺はそうは思わないし、みんなそんなもんじゃないの?」「俺が悪いのか」

でした。私はパートナーを否定する気や、ましてや攻撃しているつもりはまったくなく“今こう感じている”(だから、そんな言い方(内容)はやめてね)を伝えようとしただけです。

一つ、かなり特徴的なエピソードがあります。何年か前に、離れて暮らす実家の母が突然亡くなりました。あまりに突然だったこともあり、うまく悲しみの感情(現実)を受け止めることができず、泣きたくても涙が出ないという、自分に違和感を抱えたまま数日を過ごした後、帰宅しました。

パートナーに母が亡くなって悲しくてたまらないことなどを話しました。返ってきた言葉は、

「一般的に親は子より早く死ぬものだし、生きていれば皆いずれ死ぬものだ、なのにそんなに悲しむのはナンセンス」

でした。間違っていません・・・。むしろ正しいです、感情的な部分を考えなければ。

医学が発達していても今のところ人類の死亡率は100%ですし、一般的に子よりも親が先にお迎えがくるものでしょうから間違いではないのです。しかし、現実に照らし合わせた時、間違っていなくても肉親を亡くしたパートナーに対して掛ける言葉としては不適切です。何故なら、その言葉には“思いやりや気遣い”という共感や寄り添いが感じられないからです。

自分に肉親を亡くした経験がなくても『突然肉親を亡くしたら自分ならどんな気持ちになるだろう?きっととても悲しい気持ちになるだろう』と“想像”し、無意識にその気持ちや悲しみの感情に寄り添おうとし、労わりの言葉を掛けるのが一般的です。

あれは彼なりの励まし方だったのだろうか・・・と今なら少しわかるような気がします。でも当時はトドメを食らったように感じ、悲しい気持ちに寄り添ってもらえなかったことで「そう・・・だよね」と返すことしかできず、独りでズタズタになっていました。(母を亡くした悲しみと、その悲しみをわかってもらえなかった悲しみから孤独感倍増)

その頃には

『彼は共感することや気持ちに寄り添うのが苦手なんだから、それを求めてはダメなんだ』とわかってはいたはずなのに、

です。どこかで『この悲しみはわかってくれるだろう』という一般尺度での思い込みがあったからに他になりません。

これは最大の出来事ですが、ここまで至らない些細な出来事は日常的に起こりました。

徐々に心が擦り減り削られ乾いていき、自分の感情や気持ちを表すことが怖くてビクビクするようになり、周りには多くの人がいるのに、一番わかってもらいたい人にまったく伝わらない、わかってもらえない悲しみやもどかしさ、自分の伝達能力の無さを感じ、孤独感と絶望感を募らせていきました。

知人に〇〇なことがあってツラかった、と話をしても「男の人ってそういうデリカシーがないとこあるよねー、ウチの旦那だってさ・・・」に持ち込まれ、どこかで『いや、根本的に違う』と思っても、理解されないことを痛感しました。唯一、アスペルガーのパートナーがいる、過去にアスペルガーとお付き合いしていたという友人二人だけがわかってくれ、精一杯寄り添ってくれたことで本当に救われました。彼女たちがいなければ今の私は当然なく、完全に自分を見失い、自信を失くし、アイデンティティーの崩壊にまで行き着いていたかもしれません。

アスペルガーの特性である【共感がない】【感情に裏付けされた情動的な関わりが難しい】【無神経な言動で傷つけられる】などから、それらをまとめて表す言い方で“心の目が見えない”と言われることもあります。自分の中でなんだかストンと落ちた気がします。

パートナーがアスペルガーであること、そしてその特性は簡単に“理解する”“納得する”などと言えない面があると思っています。自分の中の今まで当たり前だと思っていたことがいとも簡単に崩れ去り、自分にまったく自信が持てなくなりますし、答えのない問いが常に頭の中にあることで疲弊していきます。

実際、私は現実感を感じられず、普段見慣れているはずの何気ない風景がモノクロにしか見えなくなったり、希死念慮(死にたくなる気持ち)なんてこれっぽちもないのに、気がつくとホームから足を踏み出していて(離人感)、しかも覚えていない・・・自分を自分と感じられず、自分の存在が透明になってしまったかのように感じたり、を経験しました。

あの頃の記憶の詳細を思い出そうとすると、しばらくは強い目眩や頭痛を覚えていました。今でも記憶が曖昧で靄がかかっているような感覚があります。

こうして自分のカサンドラを振り返るのは初めてです。

パートナーには「君は物好きだ、そんなんじゃ普通は面倒になるもんじゃないの?」と笑われますが、どうしてか悲しくなることはあっても嫌いになることはありませんでした。

自分の感情の出どころを「これは依存なのか恋愛なのか?」と客観視し、依存ならば互いのためにならないので私自身の気持ちの折り合いをつけ、離れていかなくてはいけないとひたすら自身と向き合いましたが、“パートナーと別れる”ことで私の中に引き裂かれるような痛みと悲しみ(要するに失恋)の感情は生まれても、“不安”はまったく生まれないことに気付き、これは依存ではないと判断しました。

何より、私はパートナーを大切に思っており、どんなことがあっても変わらぬ位置で変わらぬ想いで寄り添って共に生きていきたい、という気持ちが強かったので、必死でアスペルガーという摩訶不思議で厄介だけど魅力的な生き物(笑)を理解しようと努め始めました。

なぜそのような認知になるのかを考えること、コミュニケーションのコツや言葉ではなく行動に目を向けること、人より数倍脳が疲れやすいことから、一人っきりで過ごす時間が絶対に必要なこと、曖昧な表現は避けること、いきなりの予定変更など負担をかけることを減らすこと、理解できない妙なこだわりがあってもなるべく尊重する、あるいは見守ること・・・。

私自身、切り替えも消化も早く、比較的ポジティブ寄りなことと友人たちの助けもあって、折り合いをつけてからのカサンドラ状態からの回復はとても早かったように思います。

正直今でも時々、自分が弱り気味の時はフラフラ〜っとカサンドラに引っ張られそうになることはあります。

でも、もう大丈夫。

自分を見失いそうになる不安や、絶望して孤独感に苛まれることはありません。ひたすら堕ちていきそうな時でも、自分の気持ちを自分で立て直すレジリエンス力が備わってきたようです。

カサンドラ状態の時は、はっきり言ってとても辛かったです。二度とあのような思いはしたくありませんし、絶対にあの状態に戻りたくありません。

カサンドラ状態を脱出することは難しいと思っていますが、一人で抱え込みがちなカサンドラの人は、理解者と寄り添ってくれる誰かがいないと心が干からびていくことになり、孤独感を募らせますます辛くなってしまいます。

この本は私もボロボロになるくらい読み込みました(笑)定型と言われる女性(共感や寄り添いを求める)が読むと、かなり理不尽に感じる内容だと思いますし、気持ちの折り合いを付けるのに却って時間がかかるかもしれません。

【アスペルガーのパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得】ルディ・シモン著/スペクトラム出版社

この本ではパートナーが男性という設定で書かれていますが、反対に置き換えても十分に『ははーん、なるほどね・・・』と腑に落ちる内容だと思うので、参考にしてみてください。

次回の連載最終回は、私のパートナーにじっくり聞き取りをしながら、当時の荒れた気持ちや拒否感情から、今現在アスペルガーの受容に至るまでの彼の心の変化を書いていきたいと思います。(10月21日月曜日予定)

パートナーはASD<連載①>:【アスペルガー疑惑編】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回から3回の連載コラムとして、

【私自身の実体験】

を元に、<パートナーのアスペルガー疑惑>、<カサンドラ愛情剥奪症候群>、<パートナーのアスペルガー受容>という順で、その一連の出来事を書いていこうと思います。

彼本人からの「書いてみたら?」がなければ、このコラムに掲載することはなかったと思います。

ではその初回として<パートナーのアスペルガー疑惑>についてです。

紆余曲折ありながらも6年の付き合いになる私のパートナーは知的にとても高い【ASD孤立型】です。もちろん、アスペルガーの“三つ組の特性”は持ち合わせていますが、色濃く表れている特徴と比較的薄い特徴があります。

宿泊先で“ジャケットから持ち物をデスクに出す”時に、毎回同じ並びできちんと揃えられていることが最初のほんの小さな違和感でした。

普段から人の行動や言動を細かく観察する職業癖がなければ『几帳面でキレイ好きなんだな』としか映らなかったと思います。当時を振り返ると『よくあの数々の修羅場を越えて今があるな〜』と思うほど、自分が心理士にもかかわらず、それはそれは壮絶なバトルが繰り返されていました。

付き合いが長くなるにつれ、私の違和感が増えると同時に彼の地雷(笑)を踏むことが多くなり、その時思ったのが『この人、どこに地雷があるかわからない。というか、地雷原?の地雷に常に足を載せている感じ?』という凄まじい緊張感でした。

何か気持ちの行き違いが起こるような出来事があった時、『なぜわからないの?わかってくれないの?なぜ?どうして伝わらない?』という感情的なスレ違いが起こると、考えや気持ちを互いに出し合ったり、擦り合わせをすることで相互理解を深めていきたいと思う私と、「そもそも他人と理解し合うことは不可能(ある意味正しい)なんだから、そんな努力は無駄でありナンセンス」と言う彼との間には当然軋轢が生まれるわけです。

真っ向から対立し感情的なぶつかり合いが発生し、私はひたすら気持ちの交わし合いがないことで心を削られ疲れ果て、彼は彼で「思ってもみないことを言われた」ことで、自らを責められている、否定されたと理不尽を感じ、激怒状態になり、険悪ムードが漂うことになります。

また、これも特徴ですが『感情的にまくし立てられたと(彼自身が)感じると、脳が言い返す言葉を探すためフル回転状態になるか、言い返す気すらすっかり失くしてしまう』ので、一切何も話さなくなるのです。表情は固定され、まるで能面のように、何を話しかけてもまるで届いていない(無視とはまた違う空気)感じです。

結果、最悪な空気からパッタリ連絡が取れなくなる・・・を何度も繰り返してきました。これは彼なりに乱れた心や気持ちを落ち着けるための、俗に言われる“クールダウン”の時間だったようです。その時間は数ヶ月に及ぶこともありました。

もとより、不快感情以外はあまり表に出さず、表情豊かなほうでもなく且つ眼光鋭い彼は“拒絶モード”に入ると、息をするのも憚れるほどピリピリの緊張感を醸し出し、「話すな、触れるな、近寄るな」全開で、何度も起こる感情の衝突で「君とは相性が悪い、別れよう」と話されたこと数え切れず・・・。

ひとつのエピソードですが、ある日鯉のいる池で一緒に餌をあげていたことがありました。離れた場所で鯉に餌をあげている彼の表情は、眉間にシワを寄せ、物凄く不快そうに見えました。『本当は嫌だったのかな、やりたくなかったんじゃないかな』と少し後悔だったのですが、実もとても楽しかったようなのです。

あの表情の裏にある思いを聞いてみると『子供の頃、おばあちゃんに近くの工場の中にある池によく連れて行ってもらって、鯉に麩をあげてたなぁ、あの頃は楽しかったな。池を作って毎日鯉に餌をあげる生活もいいなぁ』と、懐古しながらとても穏やかな気持ちだったそうです。

表情と感情(内面)が伴わないことがある、とされるアスペルガーらしいエピソードです。

さて、そもそも“相性”とは何だろう、価値観や人生観とは違う?と、私は負のスパイラルに突入し、答えのない問いに悩みました。猫をとても大切に飼い、一見他者に対しても優しくないわけではないのに、共感性が低く、感情や気持ちに寄り添えない彼を、そして感情を表現するのが苦手な彼をどうしても理解できず、当時の私は「どうして?」「なぜ?」をひたすら彼にぶつけていた記憶があります。

出会ってからのさまざまな違和感や、何かが起きた時の彼の認知の仕方や行動を総合し、自分のアンコンシャスバイアス(思い込み・自動思考)ではないか?と重ね重ね慎重に確認したところ、ひとつの結論に辿り着きました。

しかし、また私はここで、決定的な間違いを犯します。

ただでさえ拒絶モードに入りやすくなっていて、二人を取り巻く状況が良くないことをわかっていながら、私は彼に

アスペルガー関係の書籍と手紙を送り付けた

のです。

当然彼からすれば青天の霹靂で、激怒を通り越して憤怒の様相で「何を根拠に人を障害者呼ばわりするんだ」「親からも誰からも言われたことがないのに勝手に障害者扱いしやがって一体何なんだ、この野郎」と、それはそれは恐ろしい剣幕で取りつく島もなく一切話ができない状態に陥りました。思い出すと今でも背中に冷や汗が流れます。

最悪なタイミングで最悪な特大地雷を踏み抜いてしまった

のですから当たり前ですよね。

なぜそんな行動に出たのかを思い返すと、二人がうまくいかないのは、認知の違いがあるアスペルガーが原因ではないか?ということを何とか彼に知らせたかったのだろう、と思います(←小さな親切、大きなお世話)。と同時に無意識に『もうどうなってもいいや』という気持ちもどこかにあったのかもしれません。

その後、辛うじて細々と付き合いは続いていましたが「どうせ一緒にいても君は俺を“アスペルガー”として見ていくんだろ」とも言われましたし、心身ともに強く拒絶されているのがありありとわかり、まるで薄氷を踏むような時期でした。

私の小さな違和感からパートナーのアスペルガーを疑い始めたのは、出会ってお付き合いを始めて1年が経つ頃、感情的な交わし合いができないことから不安を募らせ、行き違いから衝突が増えたのは2年経った頃でした。

そして決定的な出来事である、書籍送り付け事件が起こります。

次回は、感情的な交わし合いがうまくいかないことから私に起こった、カサンドラ愛情剥奪症候群について書いていきます。(10月16日水曜日予定)

アサーション:自己表現

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

アサーションとは自分も他者も大切にした、やわらかな自己表現のことで、

コミュニケーションスキル

でもあります。まずどのような自己表現があるのかみていきましょう。

【アグレッシヴ・攻撃的自己表現】
私はOK、あなたはNOT OK(どうでもよい)。

【ノン・アサーティヴ・非主張的自己表現】
あなたはOK、私はNOT OK。

【アサーティヴな自己表現】
私もあなたもOK。

と3つのタイプに分かれます。

一つずつみていきましょう。

【アグレッシヴ・攻撃的自己表現】
①自分の意見、考え、気持ちははっきり言うが相手の意見、考え、気持ちは軽視、無視する。

②押し付けがましく相手に言うことを聞かせようとし、支配的。

③一方的な主張をし、相手の話を聞かない。

④感情的に罵ったり声を荒げる。

⑤他罰的で責任転嫁する。
【ノン・アサーティヴ】
①相手の意見、考え、気持ちばかりを窺い、相手に合わせる。

②自分の意見、考え、気持ちを表現しない。

③「ノー」と言えない。

④相手任せで諦めやすく消極的。

⑤ストレートに言わず遠回しな表現をする。

⑥他人本位で自己否定的。

⑦依存的、自己犠牲が強く卑屈になりがち。
【アサーティヴ】
①自分の意見、考え、気持ちを表現する時に、相手の気持ちにも十分配慮する。

②穏やかに主張でき、現実的な目標を追求する。

③自分にも相手にも素直であり、率直である。

④必要ならば譲歩、妥協してもよいと考えられる。

⑤積極的且つ歩み寄りの姿勢があり、自他協力的。

⑥自分の責任で行動。

アサーションに取り組む上で重要なポイントがあります。それは・・・。

自分には感情があり、自分の感情を大切にし表現してよい。 ➡︎ 自分は完璧な人間ではないが、人格を持った価値ある存在である、と認めること

自分と同様に、他者にも感情があり、相手からの「NO」や拒絶を受けるかもしれない覚悟を持つこと。

お互いに歩み寄って、お互いに納得がいく結論に向かおうとすること。

「いつでもアサーティヴであらねばならない」と考えないこと。➡︎ 自分の行動、考え、感情は自分自身で決めてよい。

他のコラムを挟みますが、次は具体的なアサーションの取り組み方について書いていこうと思います。

苦痛神話/信仰

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今日はある日ふと思ったことを書きたいと思います。まったくの私見なので、サラッと読んでくださいね(笑)

日本には古来から“血を吐く思いで”“寝る間も惜しんで”“汗水たらして”“みんなで力を合わせて”努力、頑張ることが美徳とされる【苦痛神話/信仰】があるように思います。

それはなぜか??

今はその危険が認知されて少なくなってきたように思いますが、振り返れば小中学生時代に無理矢理やらされた組み体操の巨大人間ピラミッド。下の生徒たちの苦痛と危険、上に乗る生徒の恐怖と危険はハンパないと思いませんか?

実際事故も起きていますよね。命をかけてまでおこなわれていたアレ、何の意味があるのか未だによくわかりません。わずかな達成感のために、しなくてもよい怪我のリスクを背負ってまでやること??

苦痛を伴わないと、その努力は評価に値しないものなのでしょうか。

特にスポーツでは、さまざまな技術を身につけるために“結果”苦痛が伴う頑張りをした・・・はあるかもしれませんが、同じ努力なのに日本人は“より血を吐く思いで頑張った”を評価したがる傾向が高いように思えてなりません。

思うに、この苦痛神話のベースにあるのは、

日本の風土と農耕民族であったという長い歴史

が作り上げたのではないかと考えました。

というのは、農業は自然に影響されることが大きく、干ばつや洪水といった自然災害に常に晒され、人智を超えた自然現象の前に為す術もなく、ただ堪え忍ぶことしかできなかったことは容易に想像できます。当時に比べれば農業技術が飛躍的に進歩した現代ですら被害に遭うのに、自然に頼っていた時代なら尚更だったに違いありません。

そのような歴史が日本人の忍耐力を培い、途方もない時間をかけて苦痛神話/信仰に繋がっていったのではないかという思いに至りました。その間には大地震もあり、すべてが破壊されたこともあったでしょう。

千年以上に渡るそうした歴史が日本人のDNAに組み込まれたのではないか?と思うと、苦痛神話/信仰がそう簡単になくなるとは思えないのです。

例えば、残業することは現代における苦痛神話/信仰が成せる美徳として残っているのではないか、と思うのです。

2011年に発生した東日本大震災の際、交通機関が麻痺した東京では、駅などで忍耐強く待つ人々、黙々と歩いて家路に着く人々、暴動略奪も起きませんでした。このことはまさにDNAレベルで染み付いた苦痛神話/信仰が発揮された象徴的な事象だと感じました。それが世界から称賛されたことは記憶に新しいと思います。

歴史を踏まえると日本の苦痛神話/信仰の成り立ちは、深いところで農耕民族であったが故に自然現象の影響を長い間に渡って受けてきたことが大きく関わっている気がします。

以上、独断と偏見による私見でした(笑)