5月、天気と気温とネコと気分

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

今月も30日になってしまいました。個人的に例年になく5月はパッとしない天気と気温だったな、と思っています。

週末は決まって雨だったり、気温の差も激しく3月並みの日もありました。エルニーニョ現象が原因とも聞きますが、長袖や上着を手放せない5月でした。今週も雨が多いようです。

SNSを覗けば、紫陽花を撮った写真を投稿している人もいて、「もう紫陽花が咲いてるの!?」と思ったものです。なんだか調子が狂うというか、季節が1ヶ月ほど前倒しになっている気分になりました。

5月は五月晴れという言葉があるように、湿気もなくスカッと晴れた清々しい日が多いイメージがあっただけに、らしくない5月だったなという印象です。おまけに気温も低めだったので、イマイチ外出する気分にもなれませんでした。

3月下旬に飼っているネコがちょっと体調を崩して以来、現在も掛かりつけの動物病院のお世話になっています。5月だけで二度も採血し、その結果、ある数値に異常値があったため薬を処方してもらいました。今は正常値に戻り、ひとまず安心しているところです。

とはいえ、ネコはもう18歳。人間で言えば88歳に相当するらしいので、多少の不調が出るのが自然の摂理なら仕方ないことなのかなと思っています。今は完治というより(もちろん完治がベスト)、いわゆる健康寿命をいかに延ばせるか、できることはやろうと思っています。

思えば生後2ヶ月ぐらいから飼い始めて今まで、病気ひとつしたことがないネコでした。食欲も旺盛で毛艶もよく、年を感じさせることはありませんでした。今も元気で食欲もあり毛艶もいいので、一見不調だとはわかりません。ただ抱っこすると以前より軽いので、なんだか寂しい気持ちと心配の気持ちが同時に入り混じります。

そこに5月の天気と気温がそんな気持ちに追い討ちをかけるように、弱気にも似た感情と寂寥の念を増幅させます。

そんなこともあって、5月の気温と天気が気分にも大きく影響したように思います。自然現象とはいえ、間接的にでも気分に影響を与えるものだな、と改めて感じた5月でした。

来月から徐々に梅雨のシーズンになります。天気や気温によって、知らず知らずのうちに感情を振り回されたり、乱されることがないように意識していきたいと思います。

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心境〜なんとなくモラトリアム

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

今回はここ何日かの心境について書こうと思います。独りよがりに思われるかもしれません。ご容赦ください。

ここ何日か、心に力が入らないという感覚があります。体は至って元気なのですが、心に力が入らない感じがします。落ち込むでもなく無気力とも違います。ましてや『鬱』とも違います。

似たような感覚は、若い頃もあったような記憶があります。当時は目標を失い、何をして生きていけばいいのか、わからなくなったと記憶しています。それをモラトリアムと言うのかもしれませんが、今まさにそんな感覚に包まれている感じがします。

モラトリアムとは『猶予』という意味だそうです。私は人生における猶予と解釈しています。学生時代のそれは通過儀礼のようなもので本人は苦しい思いをしますが、社会人になるために必要なことだと自らを納得させることができます。

しかし私の年齢は学生とは違い、一定の社会経験を積んでいるので、学生の時とは質の違うモラトリアムなのだろうと思っています。

ここで今までを振り返り、今まで生きてきたことを一旦総括せよ、という暗示なのかなと思ったりもします。

思えばいろいろなことがありました。ここでいちいち書きませんが、おしなべて運がよかったと思います。もっと言えば、運だけでここまで生きてこれた、と言っても過言ではないかもしれません。

いいことも嫌なことも、すべて必要なことというのは理解しています。困難、苦難の連続だったように思いますが、そう感じてこなかったなら『無難』ということになります。しかしながら、あいにく困難、苦難の連続だったと感じているので『有難』ということになります。訓読みすれば『有り難し』になります。つまり、私は有り難い連続を生きてこれた、ということになります。

そうであるならば、これからも有り難く生きていくためには、どうして生きていけばよいのだろう、という問題が芽生えているのが今の状態と言っていいかもしれません。

これからも困難、苦難が続くとすれば、それらの中に『生』を感じたいと思います。それを『充実感』というのかもしれません。いかに充実感を得られる困難や苦難と向き合っていくか、が問われているのだろうと思います。

今までも充実感を感じてこなかったわけではありません。多分、年齢的なこともあるのでしょうが、今までとは違う充実感を欲するようになったのかもしれません。

今、それを模索する時期に来たのかな、とぼんやり思っているところです。奇しくもゴールデンウィークに入りました。この短期間でそれを見つけられるとは思いませんが、模索し始めるにはいいタイミングだと思っています。

それでは楽しいゴールデンウィークをお過ごしください。

※5月のコラムは5日金曜日はゴールデンウィークのため休載し、10日水曜日より掲載します。

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【カウンセリング】【コーチング】【コンサルティング】の違いや目的

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

私たちがおこなうカウンセリングとコーチングの手法に大きな違いはありませんが、その目的や性質には、かなりの違いがあります。

コーチングは自己実現/目標達成のための自己啓発やビジネス場面で取り入れられることが多い手法です。

それに対しカウンセリングとは、心が抱える問題に対し、専門家が援助、治療をしていく手法になります。

もっとも大きな違いは、

メンタルバランスが安定した状態で(これが重要)プラス方向に力を発揮していけるものがコーチング。

過大なストレスを抱えていたり(公私にトラブルを抱えている/家族を失った/災害に巻き込まれた、など)、心にダメージがあることで感情コントロールが難しい状態にはカウンセリング。(この場合コーチングは不向き)

 ◇

また、よくわからないのがカウンセラーとコンサルタントの違いだと思います。質問を受けることも多くあります。

コンサルタントは相談したい分野の専門家である必要があります。経営/資産運用/教育/終活/ハウスリフォーム/移住などを思い浮かべてもらうとわかりやすいでしょう。コンサルタントは、相談者の相談内容から疑問点や問題点を的確に読み取り、問題解決のために充分な情報提供とアドバイスをおこないます。

一方、カウンセラーはクライエントが自分自身の力で問題を解決できるように心理面から援助していくので、働きかける部分が違うことがおわかりでしょうか。

勉強ができない人に勉強を教えるのがコンサルタント、勉強のやり方を教えるのがカウンセラーと考えると、より理解しやすいかもしれません。

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承認欲求こじらせオバケ

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ここ最近また以前話題になった、犯罪を面白いウケると思ってやらかす“バカッター”のような迷惑極まりない輩が増えてきたように思います。コロナの制限が緩和されたこともあるのかわかりませんが・・・。

いや、きっと以前から居たのでしょう。それが発信する場がなかっただけで。今ではSNSで発信でき、皮肉にもそれは同時に良くも悪くも可視化できるようになりました。誰もがSNSを使い、自由に発信できる環境になったことで、バカッターのような輩が目立つようになっただけでしょう。

彼らを突き動かしているのは拗らせた承認欲求だと考えています。承認欲求は、拗れて歪んだ承認欲求でなければ、人が自分を肯定し生きていくために必要な自己肯定感と深い関係があるので、失ってはならない欲求の一つではあります。

しかし、他者の迷惑を考えられず(考えず?)、「面白いかも」「ウケるに違いない」「みんなビックリさせよう」「こんなことやっちゃう自分ってスゲー」みたいなペラッペラに薄い承認欲求を満たしたいだけの行動は、時として取り返しのつかない事態を招きます。

実際、某回転寿しチェーンはやらかした高校生と保護者から謝罪があったことを認めつつ、被害届は取り下げず刑事と民事で厳正な処分を求める考えを変えていません。

謝れば済む。謝れば何とかなる。謝ったんだから許してもらえる(謝ったのに許してくれないなんてオカシイ!/謝ったんだから許すべき!)と考える「アタマ大丈夫ですか?」の強者もいます。

もうね・・・億単位の請求をされてしまえばいいと思います、個人的には。鉄道の人身事故でも遅延分の損害を鉄道会社は遺族に請求しているそうですから。

自己破産しても消えない賠償金のケースもありますから、謝っても取り返しのつかない若気の至りを一生かけて償っていけばいいと思います。

承認欲求。

他者に褒めてもらいたい。他者に認めてもらいたい。他者にスゴいと思われたい。他者に特別だと思ってもらいたい。

認めて!褒めて!もっと私を気分よくさせて!

私はコラム以外に一切SNSをやらないので、息子のインスタグラムやパートナーのSNSを見せてもらうしかないのですが、SNSにはそんな人たちで溢れ返っています。魑魅魍魎とでも言いましょうか。

やらかし系バカ者(一歩間違えば犯罪)から、やたら公私リア充をアピールする人(面倒だけど実害なし)、不幸自慢から訳わからないマウンティング(不快指数青天井)まで、現代の病んでいる社会の縮図のように思えます。

承認欲求を拗らせると面倒な人になることだけは確かです。ただ面倒な人になるだけならまだいいのです。華麗にスルーにして放置するなり「へー、ほぉ〜ふ〜ん」を無限ループしていればいいのですから。←ヘソ曲げるかもしれませんが、そんな機嫌を取る必要はないので(自分の機嫌は自分で取れるのが大人です)、能面になっていれば居心地が悪くなって去ってくれるでしょう。

承認欲求オバケには関わらないのが一番ですが、関わらざるを得ない関係だと微イラ/モヤモヤします。巻き込まれない実害のないオバケが相手で、自分に余裕のある時には「スゴいですねー」「私にはできません」「さすがです」をループしていれば、人間関係の悪化は避けられますのでお試しください。

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メンタルと心の違いを考える

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

私は広告制作の仕事もしているせいか、言葉に敏感なところがあります。広告はキャッチコピーをはじめ、コピーを考えることも仕事の一つです。商品やサービス、あるいは企業そのものについて、わかりやすく表現する言葉がコピーです。コピーライターという職種が専門にあります。

標題にも書いたように、私たちは『メンタルと心』を同じように使っていますが、果たして同じだろうか?という素朴な疑問が私の中でふと湧きました。

メンタルは英語、心は日本語であることは誰もが納得するところだと思います。そこで、日本語の『心』に近いは英語は何だろうと考えた時、それは『ハート(Heart)』あるいは『エモーション(Emotion)』ではないか?と。一方英語の『メンタル』に近い日本語は何だろうと考えた時、心というより『気分』『気持ち』あるいは『精神』『心理』ではないかと思いました。

私たち日本人は日常において、心が弱る、精神的に滅入る、気分が滅入る、気持ちが落ちる、などと、メンタルと心という言葉をいちいち考えて使い分けることなく、無邪気に使用していると思います。直感的に、と言ってもいいかもしれません。

心とは何か、を少し深く考えた時、それは想いだったり、感情だったり、情緒だったり、いわゆる英語で言うところのエモーショナルなことではないかと思いました。

若者の間で“エモい”という表現が使われています。エモーショナルな事象を“エモい”と彼らは言うらしいのですが、具体的に表現できない、言葉にしにくいことに遭遇した時の気持ちを表すこととして使われるようです。これは何を意味するかというと、思うに、『心が何らかの反応をした』ということではないでしょうか。精神や心理(あるいは気分・気持ち)が何らかの反応をした、と言い換えてみると、どこか違和感を感じます。やはり『心が何らかの反応をした』=『エモい』のほうがしっくりくる気がします。

このように考えてくると、日本語の言う『心』とは、感性(センシティブ)にまつわることと言ってもいいかもしれません。

それに対してメンタルはというと、精神的、心理的な部分のことと言えるのかもしれません。心に理が付くと、途端に感性やエモーショナルなことではなく、脳との関連を想起させます。『理』つまり『ことわり』ですから、思考と密接に関係しているのではないか?つまり脳です。また心理は思考に影響されるところが大きいと言えます。人間関係で悩むことを例にすると、悩むこと自体が既に思考です。さらに精神とは一歩踏み込んだもので、その人の自分軸、支柱、存在意義というか、その中には当然思考も含まれ、現時点でその人をその人たらしめているものが精神ではないかと思うのです。

このように考えるてくると、英語の言う『メンタル』とは、思考(シンキング)にまつわることと言ってもいいかもしれません。

以上のように考えてくると、『メンタル』≒『思考』、『心』≒『感性』となり、即ちメンタルと心は似て非なるものだと言うことができます。なるほど、心理学と脳科学が密接に関係してくるわけです。あくまでも私見ですが。

だとすれば、メンタルヘルスは一般に『こころの健康』と言われていますが、『思考の健康』となります。考え方の健康ということです。ネガティブや悲観的など負の思考に引っ張られたり陥った時を思い起こすと、それに呼応するかのように気持ちに作用し、イライラが募ったり、自暴自棄になったり、体調不良、不眠、食欲不振などが生じます。思考の仕方がそもそもの発端であることがわかります。しかし現実には、そもそもの発端である負の思考は見落とされ、二次的とも言える表面に出ている気持ちや気分にばかり目がいっています。これでは対症療法的なことを繰り返すばかりで、根本解決にはなりません。

仕事が思うようにできない、向いてないのかな・・・と悩む(考える)。今日も上司に叱られた、私は(俺は)ダメな人間だ・・・と悩む(考える)。経済的に苦しい、どうしたらいいんだ・・・と悩む(考える)。などなど、自分の存在、自分の存亡に関わることで悩むこと(考えること)が、メンタルに悪い影響を及ぼしていることがわかります。なるべくメンタルに悪影響を及ぼさないためには、悩み方(考え方)を工夫することが案外有効であり、悪影響を回避できるのではないか、と思うのです。

ここまで考えてくると、性格や生来性はあまり関係がなく、ましてやそれらを変えることではなく(変えることは至難の業)、思考の仕方の選択肢を多く持つと言えばいいのか、『変える』のではなく『拡げる』ことがカギとなりそうです。その結果が心の安定へと繋がっていくのではないか、と思います。思考の仕方を拡げると言われれば何とかできそうな気がします。

最後に、ルネ・デカルトの“我思う故に我あり”という有名な言葉があります。簡単に言い換えると“私は考えている、だから私は存在している”となります。つまり、『私』の存在は『考える』ことで成り立っているということです。メンタルが思考にまつわるものだとすると、ハートやエモーションといった感性にまつわる『心』とは明らかに異なるものと言えそうです。

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謹賀新年

新年明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

本年も本日よりコラムを掲載してまいりますので、お読みいただき少しでもお役に立てれば嬉しく思います。

さて、この年末年始は行動制限がなかったため、久しぶりに帰省した人もいたのではないでしょうか。

私は例年と変わらず、大晦日は年越しそばを食べ、年が明けた午前0時過ぎ早々には近所の神社へ初詣に行きました。今年はやはり行動制限がなかったためか、近所の小さな神社でさえ人出は多かったです。

よく『今年の目標は?』と聞かれると思います。私は個人的にあまり目標を立てないので、この質問をされると困ります(笑)

個人的なことになりますが『目標』という言葉がどうも苦手です。どこか義務を課すあるいは課されるようで重苦しいと感じるからです。一度目標達成が難しそうになると、無理をして何かを犠牲にしたり、身体的肉体的、クオリティ・オブ・ライフ、ワークライフバランスにいいことなど何もなさそうです。そう思うと気分が滅入ります。精神衛生上、私にはよくない言葉のひとつです(笑)

目標という言葉の代わりに『予定』という言葉はいいですね。あくまでも『予定』であって義務感はかなり薄らぎます。融通が利きやすい。『プラン』と言い換えてもいいです。プランA、プランBというように、進捗状況を見ながら軌道修正が容易な印象があります。

ということで、今年のメンタル・イデア・ラボの『予定』は、行動制限もなくなって社会も通常モードになりつつあることを踏まえて、リアルの場での勉強会あるいはセミナーを開催したいと考えています。

詳細が決まりましたら、ホームページにてお知らせしたいと思っています。

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思考実験【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回に続きで、『テセウスの船』をアリストテレスの四原因から深掘りしてみたいと思います。少し長くなりますがご了承ください。

物事の在り方すべては『四原因』で説明できると考えたのが古代ギリシアの哲学者、アリストテレスです。

まず『四原因』とは・・・

・質量因 ・形相因 ・動力因 ・目的因

であり、

  1. 質量因・・・組成は何か?
  2. 形相因・・・形状は?
  3. 動力因・・・誰がどのように作った?
  4. 目的因・・・目的は何か?

になります。

アリストテレスは『テセウスの船』で重要なのは、それが“どのような形状か”を決定する2の形相因と考えました。形相因はその物の“見た目”を示していることはおわかりだと思います。

老朽化により幾度となく修理が重ねられた『テセウスの船』ですが、いくら当初からの部品がすべて入れ替わっても「見た目は変わらないので、それは同一と言える」というのがアリストテレスの解です。

次に組成素材の1の質量因から見てみましょう。

船の最初の部品はすべて取り替えられており、別の組成の素材が使われているので同一ではないと言えると思います。

しかし、3の動力因から見てみると、船は修理を重ねても当初と同じ技法で作り直されたであろうと考えられますので、同一であると言えるのではないでしょうか。

次に4の目的因から見てみましょう。

見た目は変わらず船であると認識できること、またテセウスが使用したという事実は変わらず同一であると考えられます。

このように、どのような物がどのように在るか?を細かく分解し考え、何が重要なのか各々の捉え方次第で思考実験『テセウスの船』の答えは変わってくるのです。

さらに<同じ>に着目してみましょう。

<同じ>とは“何をもって”<同じ>と言えるのか?

<同じ>という概念を考えてみます。

<同じ>の概念は【質】と【数】に分けられます。<同じ>の概念で、どちらに着目し重要視するかで『テセウスの船』の答えは変わってきます。

どういうことかというと・・・

『テセウスの船』は老朽化により、長い時間をかけてすべての部品が交換されていっています。これは【質】という点で考えると変わってしまっているため、<同じ>とは言えません。

しかし、『テセウスの船』と呼ばれる船は、建造された当初から現在に至るまで、この一隻のみで他には存在しません。そう考えると【数】という点で<同じ>であると言えるわけです。

次に時系列から考えてみます。

『テセウスの船』は修理に修理を重ねて、その部品すべてが入れ替わったとしても、建造された当初から現在に至るまでのどの時点でも『テセウスの船』として在り続けました。これを『テセウスの船ではない』とするならば、どの時点から『テセウスの船』ではなくなったのでしょうか。

最初に部品を取り替えた時?

最後に部品を取り替えた時?

さらに話を進め空間という視点から考えてみます。

私たちが生きる3次元は空間的な広がりです。平面(わかりやすくいうと紙面やガラス面といった“面”)が2次元であるのは皆さんご存知ですね。

4次元は立体的な3次元に時間的な広がりを与えた概念です。“一瞬一瞬”という短い時間を“区切って”考えると・・・一瞬前の『テセウスの船』と今の『テセウスの船』、一瞬後の『テセウスの船』は別の船と考えます。この考え方で考えると、老朽化から修理云々の問題とはまったく関係なくなってしまうのがおわかりでしょうか。

ミカンで考えてみましょう。

一瞬前のミカンと今のミカン、一瞬後のミカンは同じミカンではありません。一瞬が1秒であったとして、そのミカンは一瞬前のミカンより質が劣化していると言えるからです。

こんがらがってきたところで・・・

仕組みや構造から物事の本質を考察し、探ろうとする考え方は構造主義と言います。

変化し続ける物事のどこに注目するのか、何をもってその価値を定義するのか、人の数だけ答えはあります。

あなたの見方、考え方、捉え方は当たり前ではなく、100人いれば100通りの考え方があるということを改めてわかったのではないでしょうか。

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思考実験【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

師走になり今年もいよいよ残りわずかとなりましたね。寒くなりましたが、体調は如何でしょうか。

さて今回は『テセウスの船』という思考実験についてお話しします。以前そんなタイトルのテレビドラマもありましたね。

思考実験とは実際におこなわれている実験ではなく、頭(思考)の中でのみおこなわれる実験のことで、心理学/哲学/倫理学/物理学などさまざまな分野でおこなわれています。

今回はアイデンティティを深く問う哲学思考問題になります。

『テセウスの船』は、ある物体を構成している部品(さまざまなパーツ)すべてが入れ替わったとしても、それは過去あったものと同一であると言えるのかを考えます。この問題ではアイデンティティそのものをどう捉えているのかにより解答が異なります。

あるところにテセウスが乗ったとされる有名な船『テセウスの船』が保管されていました。その船は時間の経過とともに老朽化し、朽ちた部分は修理が繰り返され新しい部品に取り替えられてきました。

少しずつ船は新しい部品に入れ替わっていき、いつしか本来のテセウスの船にあった古い部品は一つもなくなり、すべての部品が新しいものになりました。

船の機能はもちろん、形や塗装といった見た目も当時テセウスが乗っていたとされる船と寸分変わらず修理されています。しかし、その船の元の船の部品はもう一つも残っていないのです。

ここで問題です。

すべて入れ替わったこの船は、過去あったテセウスの船と同じと言えるのでしょうか?

この問いへの解は、考えるその人自身の価値観や物事の本質をどのように捉えているかにより変わってきます。

身近なところにも同じようにアイデンティティを考える問題(?)があります。

創業以来、継ぎ足し継ぎ足し受け継がれてきた秘伝の鰻のタレ。メンバーチェンジを繰り返してきたアイドルグループ、などなど。

次回はテセウスの船をアリストテレスの四原因から深掘りしてみます。

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命のせんたく

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

先日、久しぶりに遠出をしました。泊まったのは鳥取県は大山の麓のホテルでした。

ホテルに着いたのはもう陽が沈んだ午後7時でしたが、ホテルの窓から人家の灯りはもちろん街灯すら見えず、暗闇そのものでした。

翌朝目覚めたのは午前5時半頃だったと思います。

カーテンを開けると、外は夜明け直前で空はうっすらと明るくなっていました。そして目の前にあったのは、大山の見事なシルエットでした。

別名『伯耆富士』と言われているとおり、まるで富士山かと見紛うほど、左右の稜線のシンメトリーが美しい山でした。ホテルの四角い窓が額縁のようで、あたかも一幅の絵画を見ているようでした。

美しい大山のシルエットをしばらく見ていると、左の稜線から太陽が昇ろうとしてきました。大山からの日の出です。

それはそれは力強い朝陽で、まさにダイヤモンドの輝きと言っても過言ではありませんでした。山頂から昇っていれば、間違いなく鳥取のダイヤモンド富士だったことでしょう。『日、出づる国』という言葉が自然と浮かびました。

東京では絶対に見ることができない光景であり、その圧倒的な美しさに言葉もありませんでした。

朝からこのような光景に接するとは思いもしなかったので、驚いたのと同時に心の中で何かが洗われたような感覚になりました。

後で聞いた話ですが、大山は1年の3分の2は大抵雲がかかっており、山の全景がくっきりと見えることはあまりないそうです。幸運にもその日は雲一つない快晴でした。

折しも、11日から全国旅行支援が始まりました。外国人観光客の来日も急増しているようです。

時間を見つけて、あえて命のせんたくに行き、行ったことのない場所へ行くのも悪くないかもしれません。

それは仕事などのモチベーションにも繋がり、充実した日常を過ごすことに繋がる気がします。束の間、日常から非日常に浸ることは、人が生きていく上で案外大切なことかもしれないと実感しました。

というのは、メンタルヘルスに良いということ以上に、五感で体感する未知は、もはやメンタルトレジャーになると思います。上手く言えませんが、個人的には『生き還る』ぐらいの刺激があると思います。

旅は何かモノを所有することではなく、ココロを揺さぶることなのかもしれない。ココロが揺さぶられると、いつのまにか背負ってしまっている日常の重り、あるいは縛られた鎖、そんな無意識な束縛や足かせを解き放つ精神力と勇気が芽生える可能性を秘めていると思うのです。

私の場合、たぶん、それが『生き還る』という感覚を抱かせたのだろうと思います。

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夏の終わりに

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

9月になりました。まだ少し暑さは残るものの、朝夕は涼しくなりました。

ツクツクボウシの鳴き声がどこか寂しく聞こえました。今年は3年ぶりにコロナによる行動制限のない夏でしたね。梅雨明けもとても早かったです。

個人的には今年の夏は、例年にまして夏らしいことをした気がします。かといって大したことはしていないのですが、少し子供時分に戻って夏を愉しんだように思います。

まず西瓜を食べました。酷暑と言ってもいいぐらい、とても暑い日だったことを覚えています。その中で食べる西瓜は格別美味しかったことが印象的でした。

冷やし中華を食べました。近所の蕎麦屋が冷やし中華を出していたので食べてみました。私は醤油・味醂・酢のタレというのでしょうか、具の種類や麺が私の好みにぴったりの冷やし中華で、箸が止まらないほど美味しかったです。蕎麦屋の冷やし中華ということで少し侮っていました(笑)以来、その蕎麦屋では数回冷やし中華を食べました。

江の島へ行きました。江の島は毎年の恒例になっていますが、今年も行きました。海沿いを自転車で走りました。江ノ電の線路沿いを走りながら、稲村ヶ崎まで行きましたが暑いながらも気持ちよかったです。

その前に江の島ではかき氷も食べました。甘味処のかき氷は氷がふわふわで、口の中でサラッと溶けてなくなる食感はなんとも言えませんでした。ちなみにあずきを食べました。みぞれ味にあんこが入ったかき氷です。

そして、今年の夏は花火をやりました。実に数十年ぶり。中学生になってからやったことがなかったかもしれません。それをあえてやってみました。火薬の匂いが懐かしかったですね。線香花火もしましたが、先端の火の玉が途中で落ちてばかりでした(笑)

また、ラムネは飲みましたがサイダーを飲むことをうっかり忘れてしまいました。ご当地サイダーが好きなので、来年の夏はサイダーをまず飲みたいと思います。

そしてぼちぼち秋刀魚の声も聞こえてきました。生秋刀魚の塩焼きはこの時期しか食べられないので、今年は最低三尾は食べたいな、と思っています(笑)

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