バウンダリーとは?【3】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

最終回となる今回は、バウンダリーを引くために意識したいこと、ぜひやってみてほしいことをお話しします。

難しいことではありません。

まずは自分の境界線を意識してみることです。他者とのバウンダリーはその関係性や距離でも違うものですから。

身体的なバウンダリーで考えると一番わかりやすいと思います。冷め切った間柄でなければ夫婦間や恋人同士が手を繋いだりハグし合ってもお互いに不快感や嫌悪感はありませんよね。

ならば、職場の上司から手を握られたらどうでしょうか?お隣の奥様にハグされたら?行きつけのコンビニスタッフならどうですか?

はっきり「嫌だ、やめてほしい」と感じ、ズカズカとバウンダリーオーバーでパーソナルスペースに踏み込まれたと不快になりませんか?

それが身体的バウンダリー(境界線)です。

距離のある付き合い方をしている間柄の他者にパーソナルスペースに踏み込まれると居心地の悪さや嫌悪感、不快感を感じると思います。

自分と他者との心的境界線も同じです。

会社の同僚と何十年も付き合いのある親友とも呼べる人では、個人的な話をどこまでするかを無意識に線引きしていませんか?

この無意識を意識的におこなうためには、

自分のニーズ(気持ち/感情/意思)を意識し、それを大切にすると決める。

“決める”のはあなたの意志です。自分の心的境界線を守りたい、守る!と自分に言い聞かせる覚悟でもありますし、何より自分の意思や気持ちを優先に考える(押し通す、ではありません)権利が誰にでもあるのです。

自分が望んでもいないのにバウンダリーオーバーされていても断れない人は、“自分より他者”を優先しています。

確かに仕事ではプライベート以上に空気を読むことを求められるのが日本の風潮ですが、自分の感情や意思を主張することはワガママや自分勝手ではありません。

こう書くと、拡大解釈して自分の意思や気持ちを何がなんでも押し通そうとする人が一定数出てくるのが悩ましいところなのですが・・・しかし、それが悪いわけではないのです。後に話しますが“主張の仕方”にコツがいるのです。

不安や恐れの感情を解放する→頼まれ事を断れない、他者に自分のことまで決められてしまう、良い顔をしてしまう、我慢ばかりする・・・。

これらの心理背景には、

  • 関係が悪くなる。
  • 嫌われる。
  • 怒られる。
  • 使えない、と思われる。
  • コミュニティで居心地が悪くなる。
  • 評価が下がる。
  • 相手が困る(困るだろうと思っている)。

など、いわゆる忖度する自分、空気を読む自分がいるはずです。

アサーションを身につける。

前記の“主張の仕方のコツ”の部分です。

アサーション→ https://www.m-idea-l.com/2019/10/06/

アサーションを使って自分のNOを伝えられると相手に配慮した伝え方になります。

断る理由→断る→代替案の提示

これを職場で休日出勤を頼まれた場合と居住地域の地区役員を頼まれた場合で考えてみます。

<職場>

「申し訳ありません、その日は以前から両親の病院に付き添う約束をしておりまして」→「ですので、休日出勤はできかねます」→「土曜日は難しいのですが前日の金曜日の業務後におこなう、というのはどうでしょうか?」

<地区役員>

「(例えば)体の弱い子供がいて/遠くに住む両親の介護が/出張の多い仕事で」→「お引き受けすることが難しです」→「地区役員は無理ですが、休日朝からの全体清掃や夜間見回りなど私ができることは協力させていただきたいと考えています」

闇雲に自分の主張(NO)を伝えるのではなく、代替案により歩み寄り、相手の考えも尊重する、そう考えるとNOも言いやすくなりませんか?

自分にとってのバウンダリーを知り意識を向けてみることで、少しでも人間関係のストレスが少なくなるといいですね。

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バウンダリーとは?【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回の続きから、なぜバウンダリーを引けなくなってしまうのか、その原因と考えられるものがあります。

親が過保護、過干渉の場合、子供自身がやらなくてはいけないこと(できるようにならなくてはいけないこと)を先回りして親がやってしまうことで、子供は自分で考え行動し、成功体験を積む(もちろん失敗もある)ことができず自信が育まれません。

とても優しく面倒見がよいように見えて、実は子供の自主性や自立を阻む“優しい虐待”になってしまっているケースもあるのです。

また暴言暴力で抑圧し養育した場合、子供は自分のバウンダリーを引けなくなってしまいます。バウンダリーを引こうにも親がズカズカ入り込み抑圧し脅すので、怒鳴られ暴力を振るわれないために、自分の気持ちを殺し親の顔色伺い仮面を被るしかなく、アイデンティティーを築けないのです。

バウンダリーが築けないと、他者との心的距離の取り方がわかりません。親しくなれない、親しくなっても自分をさらけ出せない、他者に簡単に心に入り込まれる、極端に距離を置いてしまう、また反対に他者の心の領域に踏み込んでしまう、などが起きやすく、人間関係構築がとても難しく生きづらさを感じてしまいます。

アタッチメント不全があると上手にバウンダリーを引くことができないので、人間不信に陥りやすく大人になってから人間関係に悩む場面が増えます。

幼少期の家庭環境だけが原因ではありません。

ショックなことがあったり心的に痛手を負う出来事があると、傷つきたくないために無意識に心が防衛します。何度も同じように傷つき痛い思いをしたくないのは皆同じですが、この心の防衛が過剰になると他者と距離を置き過ぎたり心を開けず、自分らしさをさらけ出すことができなくなるのです。

生きていれば他者(親は一番近い他者)との関わりを避けられず、その中では傷つくことも傷つけてしまうこともあります。傷ついた経験が多いほど、傷つかないように自分の心を守ろうと必死に防衛し、バウンダリーの引き方がわからず人間関係に苦しむことに繋がっていくのです。

【3】ではバウンダリーを引くために、どのようなことを心掛ければよいのかについてお話ししようと思います。

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バウンダリーとは?【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

バウンダリーという言葉をご存じですか?

パウンダリーとは、自分と他者の間に引く【心理的境界線】のことです。

今回は【1】【2】【3】に分けて、それぞれのためバウンダリーについてとバウンダリーを守るにできることをお話しします。

適切なバウンダリーに大切なことは、

  • 自分の問題と他者の問題を混同したり、他者の問題を自分の問題にしない。
  • 他者のやるべき役割を自分の役割にしない。
  • 他者の責任と自分の責任を分けて考える

ことです。

バウンダリーが引けていないと、さまざまな人間関係(親子/恋愛/夫婦関係/仕事)に歪みを起こしやすくなったり、自身がストレスフルになり疲弊します。

バウンダリーを引けないことで、どのようなストレスを感じるのか考えてみましょう。

本来やりたくない(断りたい)と思っていることをやらなくてはいけないストレス。

望まずして他者のサポートやケアをおこなうことになってしまうストレス。

他者領域に踏み込みやすくなることで、思いどおりにならないこと(支配できない)ストレス。

などになります。

具体的に見ていきましょう。

<親子関係>
→子供に自分の理想を押し付ける。
→親が喜ぶような良い子になろうとする。
→いつまでも口出しをし、子供の自己決定を認めない。
→子供は自分とは違う価値観があることを認められない。
→本来子供がやるべきことを親がやってしまう。
<職場>
→本来自分の仕事ではないことをやらされている。
→頼んでもいないアドバイスをされる(アドバイスをする、も含む)。
→残業が当たり前になっている。
→上司や同僚、部下の仕事をついやってしまう。
→自分とは関係ない業務担当者に仕事の口出しをする(される、も含む)。
<恋愛/夫婦関係>
→自分ばかりが我慢をしている。
→家事や仕事、育児のほとんどがどちらかに偏って担っている。
→話を聞くばかりで自分の話は聞いてもらえない。
→暴言暴力がある。
→経済的なことをどちらか片方だけで決める。
→素の自分でいられない。
→上下関係がある。
→頼まれると断れない。

心当たりありませんか?

親の過干渉はとてもわかりやすい例ですね。

次回では自分のバウンダリーを守るために心掛けたいこと、できることについてお話しします。

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境界知能/知的ボーダー

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

支援からこぼれ落ちてしまうのに、社会生活や日常生活であれこれ困り感が出る。わかりやすく知的障害でも発達障害でもない境界知能(知的ボーダー)をご存じですか?

自治体によって僅差はありますが、概ねIQ50〜70が軽度知的障害とされ境界知能と言われています。

成績が振るわないことが多く、概念の理解も難しいのですが頑張れば高校までは卒業でき、買い物(割引率や消費税などの計算)や煩雑な手続きは苦手だけど、サポートがあれば日常生活や社会生活はできる、といった感じでしょうか。

IQは知的能力を数値化して表しますが、そこで見ているのは勉強ができるできないといった能力(学力)ではなく、さまざまな適応能力も含めて見ています。

適応能力は同年齢と比較した時に、社会生活や日常生活を送るために必要な能力がどの程度備わっているのかを見ます。

適応能力とは大まかに3つの領域に分けられ、対人コミュニケーションや日常スキル、概念などで、言語理解や読字、数や時間、記憶など抽象的なものを理解する能力が概念です。

“(ホール)ケーキが切れない非行少年たち”という本にも境界知能について説明がありました。

実際に境界知能だとどのような困り感や生きづらさを感じるのでしょうか。

サポートがあれば金銭や読字など簡単な概念は理解することができるので、時間はかかりますが買い物や家事など一人でこなせるようになります。

認知面に問題を抱えているケースが多く、感情の細分化が未熟、言語化が苦手なこともあり、コミュニケーションはパターン化され幼稚なイメージを受けることもあるようです。

感情のコントロールが苦手でキレやすかったり、先を見通した計画を立てることも苦手で、行き当たりばったりな言動、行動が目立つこともあります。

発達障害と重複するケースもあることから慎重に見極めることが大切です。

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昨今オフィス事情

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

先日インターネットで面白いニュース記事を読みました。

コロナによって在宅ワークやテレワークが増えたことで、オフィスの縮小傾向にあることは周知のとおりです。その結果、新たな課題が生じました。それはコミュニケーション不足や交流不足です。

実際にその記事では社員がコミュニケーション不足や交流不足を不安に思っているという内容が書かれていました。

そこで最近ではオフィスを働く場からコミュニケーションや交流の場へと変化させようとしている、というのです。もちろん、それが可能な企業や難しい企業があります。業界にもよるでしょうし、業種や職種にもよるでしょう。

テレワークや在宅ワークが一定の広がりを見せる一方で、やはりコミュニケーションや交流は人が人らしく生きていく上で必要な要素です。

まして仕事はチームでおこなうことがほとんどで、チーム内のコミュニケーションや交流が少なくなるテレワークや在宅ワークに不安を抱くことは当然で、至極まっとうな欲求だと思います。

オフィスを働く場からコミュニケーションや交流の場へ移行できる職種、企業はまだ少なく、またそれが可能な職種も限られます。コロナが生んだ新しい職場の形のひとつのトピックでしょう。これが善ということではありません。

一方、このほどパナソニックは週休3日制を試験導入するようです。これもパナソニック内でも全職種ということではないようで、人事や経理など比較的在宅ワークやテレワークと親和性のある部署やグループ会社の社員を対象にしているようです。

日本電気は週休3日制を既に導入しており、日立製作所も検討しているようです。大企業ならではの試みだと思いますが、個人的に取引先は大変かもしれないな、とふと思いました。

部署にもよるのでしょうが、急ぎの連絡を取りたくても担当者がお休みでは動けないという弊害です。代理の人が上手く引き継いでくれていればまだいいのですが、案外そうでもないケースが多く、また代理の人に判断を仰いでも判断まではできない場合がほとんどだからです。

結局休日にまで携帯電話やメールなどで追いかけることになります。実際私は土日ですら、そういう場面を体験したことがあります。月曜日が締め切り、前週の金曜日までにチェックの返事をもらわないと間に合わないということがあり、結局土日に担当者を捕まえて間に合わせたという経験は何度もあります。締め切りを延ばしてくれればいいのですが、締め切りは延ばされません。当然予めスケジュールを立てますが、そのとおりにはなかなか上手くいかないのが現実です。

週休3日制の弊害は周囲の取引先にも及ぶことを危惧していて、どういうことかというと取引先がそれに合わせて動くことになり、徹夜になったり残業の毎日になる、ということです。立場が弱い取引先の従業員の働き方が、週休3日制のスケジュールに追われて一層多忙になり疲弊してしまっては、週休3日制はその企業の独りよがりで、世間には良いイメージを与えることはできても、その実、誰かの犠牲の上に成り立っている、ということになりかねないと思われます。

週休3日制を導入しその制度を活用する側の意識(週休3日制を導入した企業の従業員の意識)が、取引先も含めた周囲の人たちに対しどこまで考えられるかが問われるなと思いました。

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終わりの始まり【職場篇】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、本城ハルのコラムで『終わりの始まり』を掲載しました。主に恋愛関係を軸にコラムを展開していましたが、職場においても似たようなことはあると考えます。

不安、不満、不信は職場環境でも大いにあり得ることだと、私自身、実感してきた一人だからです。新入社員として、あるいは転職先で、この不安、不満、不信を経験しました。

最初から上司と距離があったわけではありませんでした。むしろ新しい職場環境に希望を持ち、モチベーションも高かった気がします。いい上司に恵まれた、と思っていたぐらいです。とは言っても私の場合、大企業ではなかったので上司といってもつまりは社長でした。

職場の場合、恋愛における価値観とは違い、上司(社長)としての人間性がモロに不安を駆り立て、不満に移行し、不信に陥る、という経過を辿ると思います。ここで誤解してはいけないのは、上司(社長)個人の人間性ではない、ということです。仕事における姿勢や責任であったり、人の上に立つ者の言動であったり、そういう意味での人間性です。

  • トラブル回避の手段を講じる。
  • トラブルが起きた時に、どのように解決するか。
  • 価値観を擦り合わせ、互いの納得に近い着地点を模索する。

企業規模はさまざまですが、少なくとも見栄を張ることなくトラブル内容を正直に話してくれたほうが、従業員に一時的に不安は与えてしまっても不満と不信は予防できると思います。不安のうちは皆で解決しようという新たなモチベーションを生む可能性があります。それが不満に移行してしまうと「やってられない」という気持ちが強くなり、モチベーションには繋がりにくくなります。不信になると、従業員の耳には何を言ってももう何も入ることはなく、見切りをつけて早く転職しよう、という気持ちしかなくなります。

このように、企業の中での【終わりの始まり】は、従業員に見放されることです。当然離職率は高いでしょう。業績以外の不安、例えばチームがバラバラであることも不安材料と言えます。その不安材料をまずは従業員あるいはチーム全員と共有できるかどうか、その上でどうすればいいのかまで話し合う、上司やリーダーにとってはとても勇気が必要だし、ハードルは高いと思いますが、それができるかできないか、で【終わりの始まり】を回避できるかどうかにかかっている気がするのです。

職場において従業員の価値観の擦り合わせまでする必要はないと思います。ただ問題の解決には、共有と話し合いは必要不可欠だろうと思います。リーダーだけ、上司だけ頑張っても限界はあり、間違えれば従業員やチームの不満、不信に繋がるリスクを生じかねません。

不満の数ではありませんが、不満しか出なくなればそのチームや組織の終わりは近いと言えるのではないかと思うのです。

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終わりの始まり

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

友人関係でも夫婦関係でもなく、当たり前に親子関係でもない恋愛関係。その中で恋愛は一番不安定な人間関係ではないでしょうか。

恋愛関係も友人関係も物理的距離“だけ”が原因で壊れることはあまりないと思っています。不安不満不信など原因はともかく、自分の中で相手に対し“どう感じたら”、“どんな感情を持ったら”終わりの始まり・・・なのかはわざわざ意識しないだけで誰もが薄々気づいているのではないか?と思うのです。

ウキウキルンルンなスタートしたばかりの恋人同士は相手に多少「?」を感じても、目の前にいる恋人の“存分に自分フィルターがかかった状態”で都合の良い部分しか見えていません。

人間関係を持続するために擦り合わせたり乗り越えていかなくてはいけない、目の前の立ちはだかる“価値観”という壁に、まだ本格的に向き合う機会がないからとも言えます。あるいは本格的に向き合うだけの関係にまだ成熟していないと言えるかもしれません。

よく3週間3ヶ月3年と言われますが、3週間はともかく、この“3ヶ月”説は3ヶ月3年過ごす中では、二人の間で何らかのトラブルが起きたり、“譲れない”価値観の違いが露呈していくからではないでしょうか。

  • トラブル回避の手段を講じる。
  • トラブルが起きた時に、どのように解決するか。
  • 価値観を擦り合わせ、互いの納得に近い着地点を模索する。

どれも高いソーシャルスキルとコミュニケーションスキルを必要とします。しかも、いちいち言葉にせず“察する”ことも要求されるという高難度です。

どちらか一方がこの能力が高くても残念ながら長続きしません。恋愛は一人では絶対に不可能だからです。我慢に我慢を重ねての長続き、はあり得ますが・・・。

最良なのは、二人ともがスキルを持ち合わせていることですが、世の中、そうそう上手くいかないものです。

どちらかが、もしくは両者が「自分は間違っていない!悪いのは全部相手だ!」という気持ちを持つと、どんな小さなことでもそこから綻びが生まれ、同時に不満も生まれます。これはあらゆる人間関係に言えることだと思います。

コラムでも何度か書いていますが、人はいきなり不信にはならないもので、不安→不満→不信という過程を辿ります。

パートナーと「相手の気に入らないところの数を数えるようになったら終わりに近いだろうね」と話をしていました。もちろん細〜い見えない糸でのみ繋がっていた修羅場三昧の危うい氷河期が私たちにもあり、その時はお互いに気に入らないところだらけ(むしろ嫌なところしかない)だったと思いますが(笑)、今は「気に入らないところは特にないな」なので、なんとか無事に危機を脱したと言えます。

不満を不満のまま不信になるまで放置(逃避)した結果、相手の“気に入らない”数を数えるようになったら、どんな関係も終わりの始まりではないかと思うのです。

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柔軟性のないガチガチな正義を振り回す人

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然ですが読者の皆さんは“正義感”と言われるものの根幹にあるものは何か、ご存知でしょうか。

それは良くも悪くも、長く生きてきた中で培われた“価値観”に他なりません。

価値観は人の数だけ存在します。

コロナが本格的に流行り始めた時、『マスク警察』という言葉が流行りました。そのベースにあるのは『感染したくなければマスクをつける』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける』ですが、マスク警察にかかると『感染したくなければマスクをつける“べき”』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける“べき”』と、“べき”思考が先歩きし“べき”に縛られてしまいます。

酷い皮膚炎やアレルギーなどで本当はマスクを付けたくても付けられない人もいますし、周囲に誰もいなくて人とすれ違わない場所だから苦しくてたまたま一時的に外していたという場合もあります。それぞれ人には事情がある(かもしれない/場合がある)ということですが、物事を一方向からしか見ていないと「マスクしてない、けしからん!」になるわけです。

混んだ店内やバス、電車内でマスク未着用で注意を受けるならまだしも、誰もいないことを確認した上で“たまたま”一時的に顎マスクにしていた時に、いないと思っていたトイレから人が出てきて「なぜマスクをしないんだ?(マスクを付けるべきだろう!)」と突然絡まれたら・・・

そこにいるのはたまたますれ違った二人だけ、話さなければ飛沫も飛ばないのですから、サッと通り過ぎればいいだけのこと。いちいち呼び止めてマスク未着用を咎めるほうが感染リスクを上げ、言い合いになってしまうかもしれない(それ以上かもしれません)トラブルになる可能性を上げているように思えます。

実際に大阪で事件が起きています。報道によると無人だった路地をマスクをせずに歩いていた男性が、たまたま現れた高齢男性にいきなり「マスクしろ」と言われ逆上し、高齢男性に怪我を負わせた、という事件です。もちろん怪我をさせた男性は逮捕されましたが、マスクをしろと言った高齢男性は怪我が元で、下半身不随になり車椅子生活になってしまったそうです。その高齢男性は「何も言わなければよかった」とテレビの取材に答えていました。

“べき”思考は自分を縛り付け、息苦しく生きづらくなってしまうだけでなく、他者にその思考が向いた時には思わぬトラブルを引き起こします。大阪の事件のように下半身不随という後悔しても後悔し切れない事態になりかねません。

「(バスや電車の)車内でお年寄りに席を譲る“べき”」→自分一人がその考えで行動するのはまったく問題ありません。でも、お年寄りでなく元気に見えて座っていても持病があり、立っているのが辛い人だったり、まだお腹は目立たなくても妊婦さんかもしれない、辛い治療をした病院帰りの人かもしれません。内部疾患は身体の不自由とは違い、パッと見はわかりません。これも、“わからなくても人にはそれぞれ事情があるかもしれない”ことなのです。

この「自分はこう思うし考えているけど、他者には他者の考えがあるし、自分にはわからない事情があるのかもしれない」と考えること、それは【想像力】です。気持ちの余裕のなさも多少は関係しますが、白黒思考と想像力が乏しい結果が自分の正義を他者に押し付け、「自分は間違ってない!」と身勝手な正義を振りかざす〇〇警察になってしまうのだろうと思っています。

〇〇警察でなくても周囲にいませんか?

「子育てはこうあるべき」

「仕事はこうするべき」

などなど、やたら“べき思考”で考えを押し付けてくるような人たち。

「それいいね、他にもこんなやり方があるよ」ならカチンとこないものを、「それよりこのやり方でやるべきだって」と、いちいちマイルドに否定してわざわざカチンカチンとくる言い方をする人。

単に言い方のクセなのか、物事を自分本位に一方向からしか見られない人なのか、これだけはわかりませんが、相手をするのはなかなか面倒で疲れるのは確かですよね。

【行き過ぎた正義】これは他者都合や事情をまったく考えていない、正義の名のもとに自分都合でのみ人を傷つける、もはや凶器です。

振りかざす正義感同様、意思疎通に便利な言葉というツールを、できれば凶器として使わないようにしていきたいものです。

見えない価値観、見えない他者の都合や事情。見えないけれど、確かに存在するものだと頭の隅に入れておくだけで変わるのではないでしょうか。

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承認欲求【3】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

2021年最後のコラムになりました。

【1】【2】で承認欲求についてお話ししてきました。最終回となる今回は、少し長くなりますが、承認欲求は必ずしも『悪』ではない、強過ぎる承認欲求が引き起こす弊害、承認欲求が強くなる原因などをお話ししていこうと思います。

組織において自分を積極的にプレゼンしなくてはいけない場面で承認欲求は当然高まります。その高まりはモチベーションとなり“やる気”に繋がっていくこともあるので、ポジティブな承認欲求となります。

しかし、四六時中自分を認めてほしい、となると人間関係構築に支障を来します。

感情が不安定で衝動的な境界例(パーソナリティ障害)アタッチメント不全などが根底にあり、認められていないと不安で承認欲求を満たすことができず、依存的に他者承認欲求を求めてしまうと持続的に安定した人間関係構築は難しくなります。

承認欲求の強い人にはいくつかの傾向があります。「自分は承認欲求、強いのかな」と思う人は振り返ってみましょう。そうでないと思っている人も、確認してみてください。

【羨み妬みやすい】
他者承認欲求は自己承認欲求と違い他者基準になるので、常に他者と比較しながら自分の価値を決めることしかできません。

いろんな意味で自分より上だと思う人に対し、劣等感(負の感情ですから心地良い感情ではありませんよね)を持ち、負の感情を浮き彫りにされる(と感じる)相手を嫌います。負の感情のベースにあるものが“自分の承認欲求のせいで相手を妬み、嫉妬している”と気付けないことがほとんどなので、これが厄介です。無意識に人を嫌いになっていくこともあり、人間関係はますますうまくいかず、ストレスに苛まれます。「私だって〜なのに〇〇ばかりズルい!」←この考えに傾きがちな人は要注意です。

【寂しがりや】
自分で自分を認められないので誰かに自分を認めてもらわないと不安になります。他者に認めてもらうことでしか自分を満たすことができないため、常に他者(認めてくれそうな)を求め、寂しがりやになっていくようです。

【常に周りの評価を気にする】
自己承認できない人は自分の基準がブレブレなので、他者評価を気にし頼りにします。周りが褒めてくれた、周りが羨ましがってくれた、のように、他者基準で自分の幸不幸を判断します。軸足が自分になく、常に他者視点の評価になり、他者はコントロールできないことから些細なことにも一喜一憂し、振り回されストレスを溜めやすくなります。

【自分に自信がない】
他者から認めてもらいたい!という他者承認欲求が強すぎるのは、自分で自分のことを認められないからです。

何があっても自分で自分を認められる人は、他者にその欲求を満たしてもらわなくても自分で自分を満たすことができるので、他者承認欲求が過度に強くなることはありません。

【空虚である】
承認欲求が強い人は自分でありのままの自分を認められないため、他者ありきになってしまいます。

自分自身が認められないものを他者に満たしてもらっても、常に(無意識に)心のどこかで自己否定を繰り返していて、心が満たされることがありません。そのため空虚な気持ちを持ってしまいます。

承認欲求が強くなり過ぎると考えられている原因に、親(養育者)からの愛情不足(アタッチメント不全)や偏った愛情、家庭や学校での教育があります。

【親・養育者からの愛情不足】
子供は幼少期のアタッチメント形成期に愛情を与えられないと、「自分は愛される価値がない」「大切にされる価値もない」と無意識に自分の存在価値を信じられないまま成長します。

愛情不足にはさまざまなパターンがあります。必ずではありませんが、そのいくつかを挙げておきます。

  • 母子家庭(あるいは父子家庭)で親がいつも忙しく甘えられなかった。
  • ギャンブル、アルコールなどに過度にのめり込む親だった。
  • 感情的に不安定や暴力的で怖かった。
  • いつも誰かと(兄弟姉妹・他者)比較され、褒められたことがない。
  • できないことをしょっちゅう叱られてばかりだった。
  • 養育者自身が精神的に未熟、承認欲求が強く子供に愛情を注ぐことができなかった。

自分の価値を自分で信じられないまま大人になった人は、常に他者から認められることを求める承認欲求が強い人になっていきます。

【家庭や学校での教育】
学校教育や家庭での教育方針も子供に影響します。

子供の教育方針には、

  • 子供の個性(違いの尊重)を大切にし、良い部分を伸ばす。
  • 子供の凹部分を埋め、周囲と合わせていこうとする。

大きくこの二種類の考え方に分かれると思います。

子供の凹部分を埋めて〜の教育方針だと、親の常識、社会の常識に当てはめようと凹部分を補おうとします。そのため、世間でいう“一般的”に問題ない子供に育てようとすることが主軸となり、子供に対し指示的(支配的?)になります。

子供の気になる悪い面にばかり目が行き、悪い面を見つけて正そうと型に嵌めようとします。悪い面が正され型に嵌ると子供を認め褒めます。

子供は親に認められたい、褒められたいと思うので、自分のマイナス面ばかり目がいく癖が身についてしまいます。自分のマイナス面にばかり目がいくと、自分には悪い部分ばかりでいいところがないと思い込み、自分に自信が持てずに成長します。

承認欲求が強過ぎると仕事でも人間関係(恋愛含む)でも上手くいかない場面が増え、生きづらさを感じます。承認欲求が強い人は、自分で自分を認め満たすことができず、常に誰かが満たしてくれることを求めます。誰かに何かを与えたりしてあげたいという気持ちよりも、自分を満たしてほしい気持ちのほうが強く、つい自分本位な欲求ばかりが目立ちます。実際には要求しなくても、その気持ちが大きい、も同じです。

前にも書きましたが、他者を変えることはできませんし、他者をコントロールすることもできませんから、相手の些細な言動/行動に不満を溜めやすく、ストレスが増えると同時にぶつかり合いも増えてしまいます。

自分に自信がないので嫉妬しやすく、いつも不安を抱えた不安定な関係になりやすい特徴があります。恋愛も含め、人間関係が長続きしづらく悩むことも多くなります。

仕事で認められたい気持ちが強いと、自分一人で何もかも抱え込み、他者を頼れません。人には誰でもキャパシティがあることはわかると思います。一人で抱え込もうとすることで心身が疲弊しストレスを溜め、心が折れたり潰れやすくなってしまいます。

また、承認欲求が強い人は他者からの評価を気にするので、他者基準でしか自分を評価できず、常に比較しながら自分の幸不幸の評価をします。他者と比較しかできないと妬みや嫉妬が生まれやすく、いつも誰かと比較しながら自分を評価していることでストレスが溜まりやすくなります。

自分が幸せかどうかは自分自身が決めること。

誰かと比較して勝った負けたではないはずです。

勝ち負けにこだわると、本当に大切なものや人、“自分”すら見失います。幸せは勝つとか負けるとかの次元ではないはずなので、「勝負」と考えること自体ナンセンスではないでしょうか。

あなたはあなたのままで価値がある人間です。どんなに上手くいかなくてもヘマをしても、情けなくてもあなたの価値は変わりません。

「もうダメだ、自分なんてダメダメだー!」と思ってしまう時、自分で自分の体に腕を回し、自分を抱きしめてください。

【セルフハグ】

頑張っている自分を「お疲れさま、ワタシ(オレ)」と抱きしめてください。

あなたを、あなた自身が認めてあげてほしいと思います。

年末年始、お仕事の人もお休みの人も、少しでも心穏やかに過ごせますよう願っています。それでは、よいお年を・・・。

本年も本コラムを読んでいただき、ありがとうございました。来年は1月10日月曜日から掲載し、その後は5の倍数日に掲載してまいります。来年もよろしくお願いいたします。

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「フツー」という言葉が多様性を阻害する?多様性とは方言!?

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

タイトルにもある「フツー」は漢字で書くと「普通」です。辞書には、特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること、また、そのさま。とありました。

私たちが日常無邪気に口にしている「フツー」は、辞書で言うところの「それが当たり前であること、また、そのさま」という意味合いで使っていることが多いのだろうと思います。

「フツーさぁ、こうしない?」「フツーこう思うでしょ」「フツーはやらないな」「フツーこうするもんでしょ」「フツーはこうだよね」「フツーこう考えるよね」などなど、誰もが一度は口にしたことがあるフレーズではないでしょうか。

ごく親しい間柄で口にすることはよくあることで特に問題ないと思いますが、職場で口にすると、ちょっと問題になりそうというお話です。もし、職場で上司や先輩が上記のような発言をしたら、部下や後輩はどう思うでしょうか?

部下や後輩がもし上司や先輩とは違う考えを持っているとしたら、彼らは「えっ!?オレ、フツーじゃないんだ」「えっ!?わたしっておかしいの?」と心の中で呟くかもしれません。それはつまり、まともに意見交換することなく、彼らは何も言えなくなることを意味します。

一旦相手の言うことに耳を傾けた上で自分の考えを伝えるというワンクッションを経た上であれば、相手は納得することもあるかもしれませんが、いきなり「フツー〇〇でしょ」と言われると黙ってしまう・・・それは面倒なヤツと思われたくない、機嫌を損ねたくない、あぁこの人に言っても無駄だ、などの心理が強く働くからだと思います。

そういう企業風土は、いつの間にか企業全体の風通しの悪さに繋がると考えられます。案外、この「フツー」という言葉が従業員の多様性を阻害する一因となっているのではないか、と思うのです。小さなことかもしれませんが組織全体で蔓延しているとなると、誰に何を言っても無駄、という一種の諦めを生み、組織全体の活性化とは真逆の力が働きやすくなると思うのです。

あるアイデアや意見、あるいはその組織の慣習とは違う行動を取った時、「アイツはフツーじゃない」「ヘンなヤツだ」と思われることが怖かったり、人事考査を恐れたり、あるいは報復人事が怖くて言わなくなる、行動しなくなる、これは意図せずとも多様性を暗に認めない裏返しとも言えます。そして知らず知らずのうちに組織が硬直化していくことになります。

そう考えた時、私たちが無邪気に口にしている「フツー」という言葉は、案外多様性を認める伸びしろをを阻害している最大の要因かもしれないと思いました。最も身近で最もポピュラーな「フツー」という言葉だけにです。安易に「フツーこうするよね(考えるよね)」などと言う時、それは同時に「そうしないのは(そう考えないのは)フツーじゃないよ」と言っていることと同じです。

直接「フツーじゃないよ」と言ってしまうと、相手に疎外感を与え、ある意味差別的です。でも安易な「フツーこうだよね(考えるよね)」も実は相手にしてみれば“あなたのフツーを相手に強要し、無理やり同感させている”ことになり、相手に違和感や疎外感を与え、失望させているかもしれず、無邪気(無意識に)な小さな差別と考えた時、この「フツー」という言葉の底知れない怖さを感じるのです。

同じような価値観を持つ間柄では良しとされても、組織など必ずしも同じような価値観ではない人たちが集まっているオフィシャルな場所で口にすると、深刻な事象(自由にモノが言えない空気、風通しの悪さ)を生みかねないと思うのです。これは発覚するような性質の事象ではないのでわかりずらく、はっきり目に見える事象でもないだけに深刻度は重大です。何となく風通しが悪いという『何となく』なものなので、“自分だけがそう感じているのかもしれない”と思うとやはり迂闊に人には相談できない、ただモヤモヤしたり悶々とするしかないのがオチではないでしょうか。主観的な感覚で客観的な証拠のようなものがないから厄介です。

例えば今日、明日、先輩や上司の「フツー〇〇だろ」と何回聞いたかカウントし、その時自分はどう思ったかを意識してみると面白いかもしれません。そして『自分はそのフツーには同感だ(同感しない)けど、同感しない(同感する)人もいるかもしれない』とちょっと想像してみるのもいいかもしれません。

時々「フツーって何だろう?」という言葉を耳にします。人それぞれ思考や性格、価値観が違うので厳密にはフツーはあり得ないのですが、私個人が考えるに『フツー』とは、共通語みたいなもので、どこの出身者であっても理解できる言葉が共通語だとすれば、誰であっても考えることやおこなうことは大体同じであろうことが『フツー』と見なされ、逆にその土地の出身者でないと理解できない言葉が方言だとすれば、その人の考えることやおこなうことは独特であるがゆえに『フツーではない』と見なされてしまうのかなと考えてみました。

多様性とはこの方言の部分を、共通語に翻訳しないで方言のままでいいよ、ということなのかもしれません。話している相手に方言で言われると「それどういう意味?」となります。意味を聞いて「へぇ、そういう意味なんだね、面白いね」となりますよね。多様性とはまさにその感覚だと思うのです。「へぇ、そういう考え(見方)もあるんだね、面白いね」というコミュニケーションスタイルが個人間を超え、広く社会に浸透して初めて多様性のある社会と言えるのかなと思うのです。特に東京は地方出身者のるつぼ。あなた自身の出身地の方言を大切にするように、相手の考えや価値観を大切にする姿勢を意識すれば、無邪気に「フツーさぁ・・・」という言葉は出なくなるかもしれませんね。

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