カサンドラ愛情剥奪症候群とアスペルガーについての交流会を兼ねた勉強会にパートナーと参加してきました【後篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は前回に引き続き標題にあるとおり、ASD当事者であるパートナーがどう感じたのかをインタビュー形式で聞き取ってみたので、それを書きたいと思います。

質問は全部で4つです。

1)私以外とはカサンドラ当事者のいる勉強会や交流会に参加したことはなかったと思うが、実際に参加してみてどうだったか?

最初は“ASDバッシングの連中の集まり”と思っていたから警戒感しかなかったが、今回の勉強会の参加者の人たちに限っては、バッシングするような人たちではなかったので、徐々に警戒感がなくなり最終的に安心感があった。それから、参加していたカサンドラ当事者の人たちは、ASDを理解したい気持ちはあるものの、それができないもどかしさと、いつの間にか自分基準の考えや感情を押し付け、それに応えてくれない相手に苛立つ気持ちが同居している印象を受けた。常にそれらが彼らの中で二律背反しているんだろうな、と思った。

2)今回ASD(ほとんどはADHDと重複)当事者とも話をする機会があったが、自分以外の当事者と話をしてみて思ったこと、考えたことは?

率直に思ったのは、こういうASDもいるのか、ということ。ASDというベースは同じだからか、彼らの話の中で共感や理解できる部分、自分にも思い当たる部分はあった。ただ決定的に自分とは違うなと思ったのは、今までの人間関係や恋愛関係で自分が思い至らないせいで相手の気持ちを理解できず、結果として相手を傷つけてしまったと悩み、自信喪失すらなっているように見えたことだ。自分は孤立型のせいか、そういうふうには考えないから、その点で悩んだこともなければ自信喪失になったことがないだけに、それはそれでツラいだろうなと思った。

3)途中でワークがあって定型(たぶん)と思われるカサンドラ側の意見も聞いたと思うが、重複のないASD孤立型としてどう感じたのかを聞きたい。

面倒くさいな、が第一印象。言っていることは理解できる。同時にカサンドラ側の思考回路とは明らかに違うことを実感した。自分の思考回路はというと、どうしようもないことに対しては諦め、少しでもそれを癒すような、あるいは和らげるような解決策を考える思考回路。対してカサンドラ側のそれは、どうしようもないものに対して何か抗いたい気持ちがあると感じた。ASD的思考はその部分がない。だからその抗いたい気持ちに共感しにくいのかもしれない。カサンドラ側の抗いたい気持ちの言動に、一度共感することがどこか“手続き”のような気がしたから、面倒くさいと思ったのかもしれない。

4)私も元カサンドラだが、現在私と上手くいっているのはなぜだと思うか?

君がカサンドラ状態の時は、あたかもこっちが加害者だと言われているようで不愉快だった。そんな時期を経て思うのは、基本的にはお互い様なことだけれども、あえて言えば、君がカサンドラを脱して以降、適度な距離感を体得したからなのか、それとも適度な距離感を体得したからカサンドラを脱したのか、いずれにしても『適度な距離感の体得』なしでは今はないと想像する。それと結果論になるが、ASDにもいろいろなタイプがいる中で、自分はたまたま君の受容範囲内のASDであったこともあるかもしれない。同じASDでも君の受容範囲を逸脱したASDも存在するだろうから。その他の要因としては、互いにネコを飼っているというのも意外と大きいと思料される。

一緒に参加した勉強会&交流会のパートナーへのインタビューでしたが、「カサンドラ脱却のヒントは両者共が(ここ非常に重要)認知の違いを理解し、受け止めていこうとする努力と、何より深い愛情が必要で、それがなければASDと定型の間に横たわる乗り越えなきゃ(上手く)いかない深くて暗い河は乗り越えられないんだろうな」という感想を持ちました。

深刻なカサンドラ状態は脱しても、日々の暮らしの中でモヤモヤイライラを積み重ね、心的疲労が重なってしまいがちな大切な友人もいます。私にできるのは、その友人の愚痴袋がパンパンに重たくなる前に話を聴くことしかできないのがもどかしいところです。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

カサンドラ愛情剥奪症候群とアスペルガーについての交流会を兼ねた勉強会にパートナーと参加してきました【前篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

発達障害、カサンドラという言葉もずいぶん市民権を得てきましたね。

今は完全に離脱していますが、私自身も過去カサンドラ状態に陥った経験があります。コラムでも何度か書いているとおり、息子はADHDがある重複、パートナーは重複なしのASD孤立型です。

紆余曲折ありましたが、確定診断はなくともパートナー自身ASD孤立型であることを自覚していますから、今回の会に一緒に参加しました。

ご自身もグレーゾーンでカサンドラ状態に陥った経験もある方が主催者で、当日ASD当事者、カサンドラ当事者が15人ほど集まりました。私が参加したのはカサンドラ状態真っ只中の人に対し、数少ないカサンドラ完全脱却組で且つ専門家であり、支援者という特殊な立場から微力ながら力になることができるのではないか?という理由からです。

カサンドラ、ASDどちらも当事者会というのは星の数ほど存在するのですが、“互いを理解し合い、尊重しながら共存を目指す”ことを目的に両者とも参加を認めて開催される会は少ないのが実情です。

情緒的な交わりが難しく、独特の認知やコミュニケーションスタイルを持つASDに振り回され傷つけられていると感じているカサンドラ側は、最初のうちはその苦しさから攻撃的になる人も多く、そのような場にASD本人を参加させればどうなるのか火を見るより明らかです。

理解したいのに理解できない、理解しようと頑張っているのは自分だけ、いつも一人ぼっちで孤独、誰にもわかってもらえない、パートナーが自分勝手過ぎる・・・そんな思いを抱えて一人で苦しんでいれば苦しみのあまり、初めは攻撃的になる人がいても仕方ありません。

今回参加した会は攻撃的な段階を過ぎ、次のステップに行くために悩んでいたり、より理解を深めたいカサンドラの人ばかりが参加していたせいか、感情を爆発させ攻撃的な言動を発する人は誰もおらず、終始穏やかな時間でした。

カサンドラテーブル×2、ASD当事者テーブル(私はこちらにいました)×1で、私のいたテーブルはパートナーを含め4人がASD当事者でした。

ASDやカサンドラについてのミニ勉強会のあと、フリーテーマで交流をしミニワーク、そしてテーマを決めてテーブルを移動しフリートークという流れでした。

ざっくりASDと言ってもさまざまなタイプがあり、その人それぞれの性格まで考えると十人十色、特性に共通項があっても濃淡もあることから誰一人として同じASDの人はいません。おまけにほとんどのASDの人はADHDやLDなども重複しているので、ますます問題が複雑化しています。

タイプが違えばアプローチも違い、特性の濃淡でもずいぶん変わってきます。

同じようにカサンドラ状態に陥っている人にもツラさは同じでも、性格+幾つかのタイプがあるように感じています。

ASDで日本人に多いのは受動型重複ですが、パートナーは極めて少ないASD孤立型でADHD要素はまったくありません。重複していると「それASDの特性だよね、そっちはADHDの衝動性からきているもの」のようにあちこちに散らばる困り感への対応が変わってくるため、ひと言で「この人アスペ」と言えないケースがほとんどです。

多くの発達障害を持つ人と関わってきましたが、重複なしの純粋(?)ASDはパートナーを含め2人だけでした。

孤立型は自身で困り感を感じていない(他者への関心が極めて薄く、積極的に関わりを持ちたい欲求はほとんどありません)ので、交流会に自分から参加することはまずありません。パートナーも私がいなければ絶対に出向かないそうです(笑)

次回は参加したパートナーがどのように感じたのかを話してもらいたいと思っています。

<運営会社:Jiyuuku Inc.

パートナーはASD<連載②>:【カサンドラ愛情剥奪症候群編】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連載2回目は<カサンドラ愛情剥奪症候群>についてお話します。

まず最初に、

私は日常起こるさまざまな負の感情に折り合いをつけることや気持ちの着地点を見つけることも時間が掛からず、ストレス状態からのリカバーも、イライラすることも少ないメンタル状態が安定しているタイプです。それだけに

まさか、そんな自分がカサンドラ愛情剥奪症候群になるとは思いもしませんでした。

さて、カサンドラ愛情剥奪症候群ですが、症候群と付いていても、実際にカサンドラ愛情剥奪症候群という医学的な正式名称はありません。カサンドラ愛情剥奪症候群とは病名ではなく、共感されず感情的な交わし合いができないことにより起こるさまざまな表れ方の【症状】をまとめたものと言えます。

私に表れた症状は、

<身体的>
不眠・過食・激しい体重変動・胃潰瘍

<精神的>
絶望感と強い孤独感・自己否定感情の増加・認知の歪み・解離

です。

私の場合、パートナーが【ASD孤立型】ということもあり、【人よりモノ(あるいは事象)に対して関心がある】【共感がなく感情の交流や気持ちに寄り添ってもらえない】【白黒思考で極端な認知の偏りがあり、行き違いが起こりやすい】という特徴から表れた症状でした。

しかし、必ずしもパートナーがアスペルガーでなくてもカサンドラ症状は起こるのです。認知の違いやコミュニケーションのズレ、スムーズにコミュニケーションが取れないため、誤解を生みやすい。また【感情の交わし合いや寄り添い、共感が得られないこと】が大きな原因です。

それはパートナー関係だけでなく、親子間、場所が職場なら同僚や上司部下の関係であっても起こり得るものなのです。

私のパートナーは繊細で傷つきやすい反面、とても頭が切れる人で聡明です。問題解決力も突き抜けて高く、そして正直。曲がったことが大嫌いで嘘をつきません。見た目は怖いのですが(第一印象はマフィアです(笑))。ひと言で言い表すと【孤高の人】です。

マフィアはともかく、前記の部分だけを見ると誠実で何の問題もないように思えます。ただ、アスペルガーの特性から『今の相手の気持ちを考えたら、この言い方(内容)だと嫌な気分になってしまうかも → だから気持ちを考えて思っていることそのままじゃなくて、配慮した言い方(内容に変えよう)にしよう』の部分が薄かったり、そもそもなかったりするので(想像力の欠如)、思ったことを思ったままの言葉で表出します。

言っていることがいくら正しいことであっても、これは時としてとても無神経で相手を傷つけ、まるで気遣いがないかのように映ります。実際「そんなこと言わなくても・・・悲しくなる」と話をしたところ、返ってきた言葉は

「俺は思ったことも言っちゃいけないのか、何も言えなくなる」「俺はそうは思わないし、みんなそんなもんじゃないの?」「俺が悪いのか」

でした。私はパートナーを否定する気や、ましてや攻撃しているつもりはまったくなく“今こう感じている”(だから、そんな言い方(内容)はやめてね)を伝えようとしただけです。

一つ、かなり特徴的なエピソードがあります。何年か前に、離れて暮らす実家の母が突然亡くなりました。あまりに突然だったこともあり、うまく悲しみの感情(現実)を受け止めることができず、泣きたくても涙が出ないという、自分に違和感を抱えたまま数日を過ごした後、帰宅しました。

パートナーに母が亡くなって悲しくてたまらないことなどを話しました。返ってきた言葉は、

「一般的に親は子より早く死ぬものだし、生きていれば皆いずれ死ぬものだ、なのにそんなに悲しむのはナンセンス」

でした。間違っていません・・・。むしろ正しいです、感情的な部分を考えなければ。

医学が発達していても今のところ人類の死亡率は100%ですし、一般的に子よりも親が先にお迎えがくるものでしょうから間違いではないのです。しかし、現実に照らし合わせた時、間違っていなくても肉親を亡くしたパートナーに対して掛ける言葉としては不適切です。何故なら、その言葉には“思いやりや気遣い”という共感や寄り添いが感じられないからです。

自分に肉親を亡くした経験がなくても『突然肉親を亡くしたら自分ならどんな気持ちになるだろう?きっととても悲しい気持ちになるだろう』と“想像”し、無意識にその気持ちや悲しみの感情に寄り添おうとし、労わりの言葉を掛けるのが一般的です。

あれは彼なりの励まし方だったのだろうか・・・と今なら少しわかるような気がします。でも当時はトドメを食らったように感じ、悲しい気持ちに寄り添ってもらえなかったことで「そう・・・だよね」と返すことしかできず、独りでズタズタになっていました。(母を亡くした悲しみと、その悲しみをわかってもらえなかった悲しみから孤独感倍増)

その頃には

『彼は共感することや気持ちに寄り添うのが苦手なんだから、それを求めてはダメなんだ』とわかってはいたはずなのに、

です。どこかで『この悲しみはわかってくれるだろう』という一般尺度での思い込みがあったからに他になりません。

これは最大の出来事ですが、ここまで至らない些細な出来事は日常的に起こりました。

徐々に心が擦り減り削られ乾いていき、自分の感情や気持ちを表すことが怖くてビクビクするようになり、周りには多くの人がいるのに、一番わかってもらいたい人にまったく伝わらない、わかってもらえない悲しみやもどかしさ、自分の伝達能力の無さを感じ、孤独感と絶望感を募らせていきました。

知人に〇〇なことがあってツラかった、と話をしても「男の人ってそういうデリカシーがないとこあるよねー、ウチの旦那だってさ・・・」に持ち込まれ、どこかで『いや、根本的に違う』と思っても、理解されないことを痛感しました。唯一、アスペルガーのパートナーがいる、過去にアスペルガーとお付き合いしていたという友人二人だけがわかってくれ、精一杯寄り添ってくれたことで本当に救われました。彼女たちがいなければ今の私は当然なく、完全に自分を見失い、自信を失くし、アイデンティティーの崩壊にまで行き着いていたかもしれません。

アスペルガーの特性である【共感がない】【感情に裏付けされた情動的な関わりが難しい】【無神経な言動で傷つけられる】などから、それらをまとめて表す言い方で“心の目が見えない”と言われることもあります。自分の中でなんだかストンと落ちた気がします。

パートナーがアスペルガーであること、そしてその特性は簡単に“理解する”“納得する”などと言えない面があると思っています。自分の中の今まで当たり前だと思っていたことがいとも簡単に崩れ去り、自分にまったく自信が持てなくなりますし、答えのない問いが常に頭の中にあることで疲弊していきます。

実際、私は現実感を感じられず、普段見慣れているはずの何気ない風景がモノクロにしか見えなくなったり、希死念慮(死にたくなる気持ち)なんてこれっぽちもないのに、気がつくとホームから足を踏み出していて(離人感)、しかも覚えていない・・・自分を自分と感じられず、自分の存在が透明になってしまったかのように感じたり、を経験しました。

あの頃の記憶の詳細を思い出そうとすると、しばらくは強い目眩や頭痛を覚えていました。今でも記憶が曖昧で靄がかかっているような感覚があります。

こうして自分のカサンドラを振り返るのは初めてです。

パートナーには「君は物好きだ、そんなんじゃ普通は面倒になるもんじゃないの?」と笑われますが、どうしてか悲しくなることはあっても嫌いになることはありませんでした。

自分の感情の出どころを「これは依存なのか恋愛なのか?」と客観視し、依存ならば互いのためにならないので私自身の気持ちの折り合いをつけ、離れていかなくてはいけないとひたすら自身と向き合いましたが、“パートナーと別れる”ことで私の中に引き裂かれるような痛みと悲しみ(要するに失恋)の感情は生まれても、“不安”はまったく生まれないことに気付き、これは依存ではないと判断しました。

何より、私はパートナーを大切に思っており、どんなことがあっても変わらぬ位置で変わらぬ想いで寄り添って共に生きていきたい、という気持ちが強かったので、必死でアスペルガーという摩訶不思議で厄介だけど魅力的な生き物(笑)を理解しようと努め始めました。

なぜそのような認知になるのかを考えること、コミュニケーションのコツや言葉ではなく行動に目を向けること、人より数倍脳が疲れやすいことから、一人っきりで過ごす時間が絶対に必要なこと、曖昧な表現は避けること、いきなりの予定変更など負担をかけることを減らすこと、理解できない妙なこだわりがあってもなるべく尊重する、あるいは見守ること・・・。

私自身、切り替えも消化も早く、比較的ポジティブ寄りなことと友人たちの助けもあって、折り合いをつけてからのカサンドラ状態からの回復はとても早かったように思います。

正直今でも時々、自分が弱り気味の時はフラフラ〜っとカサンドラに引っ張られそうになることはあります。

でも、もう大丈夫。

自分を見失いそうになる不安や、絶望して孤独感に苛まれることはありません。ひたすら堕ちていきそうな時でも、自分の気持ちを自分で立て直すレジリエンス力が備わってきたようです。

カサンドラ状態の時は、はっきり言ってとても辛かったです。二度とあのような思いはしたくありませんし、絶対にあの状態に戻りたくありません。

カサンドラ状態を脱出することは難しいと思っていますが、一人で抱え込みがちなカサンドラの人は、理解者と寄り添ってくれる誰かがいないと心が干からびていくことになり、孤独感を募らせますます辛くなってしまいます。

この本は私もボロボロになるくらい読み込みました(笑)定型と言われる女性(共感や寄り添いを求める)が読むと、かなり理不尽に感じる内容だと思いますし、気持ちの折り合いを付けるのに却って時間がかかるかもしれません。

【アスペルガーのパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得】ルディ・シモン著/スペクトラム出版社

この本ではパートナーが男性という設定で書かれていますが、反対に置き換えても十分に『ははーん、なるほどね・・・』と腑に落ちる内容だと思うので、参考にしてみてください。

次回の連載最終回は、私のパートナーにじっくり聞き取りをしながら、当時の荒れた気持ちや拒否感情から、今現在アスペルガーの受容に至るまでの彼の心の変化を書いていきたいと思います。(10月21日月曜日予定)