今、思うこと

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今、思うこと・・・

同調圧力がなんとも気持ち悪い

オリンピック開催における話です。

オリンピックについては国民感情がどうであれ、どうせ強行するだろうと思っていたので、何も感じていません。

オリンピックが始まり、日本人アスリートがメダルを取るたびにテレビメディアがこぞって「日本中が泣いた」「日本中を感動の渦に云々」「日本の悲願が云々」「暗い話題の中で明るい話題が云々」・・・これを気持ち悪く感じたり、押し付けと感じるのは私だけでしょうか・・・。大抵のことは聞き流すことができるのですが、この場合だけは言いようのない違和感に包まれるのです。

アスリートがオリンピックを目指し、死ぬ気で頑張ってきたのは想像に難しくないし、アスリートの立場だと本音では『オリンピックが開催できてよかった』だと思います。始まれば一部ではそれなりに盛り上がっている、のかもしれません。

これがコロナ禍でなければ興味が薄いにしろ、ここまで冷めてはいなかったでしょう。

私の周りにはメディカル、コ・メディカルが多くいて、感染リスクと闘いながら日常業務を日々粛々とこなしていますが、その周りでは感染し亡くなった人も多くいるのが現実で、身近な人を亡くした知り合いも一人や二人ではありません。そんな悲しむ暇もない人たちに、テレビメディアの言葉はどう映るのでしょうか。

なにも、一切報道するな、などとは思いません。

でも「日本中が泣いた」「日本中を感動の渦に云々」の言葉の中に“日本で開催されている東京オリンピック、日本人がメダル取った(健闘してる)んだから感動するよね?みんな感動するに決まってるよね?”とゆるゆる同調圧力をかけられているように感じてしまうのです。

「じゃ、テレビなんか見なければいいじゃないか」という意見があることも知っています。しかしそれは、一方への我慢の押し付けで排除の論理です。そんな単純な話ではありません。テレビメディアは公共の電波(国民の財産)を使っている以上、このコロナ禍においては配慮ある報道がされて当然だと思うし、無邪気に歓喜の言葉を並び立てる姿勢を問わなくてよいとは思いません。裏を返せばテレビ局が所有する自前の電波であれば、どんな報道をしようが勝手です。

なぜ同調圧力を生みかねない言葉を無邪気に使うのか?お涙頂戴が大好きな日本のテレビメディアはその体質は依然変わっていません。多分これからも変わらない気がします。それに乗じて『感動しないなんておかしい』『なんでオリンピック観ないの?』と感動しない(興味ない)人を非難したり、おかしいと言わんばかりの人々こそむしろ深刻で、旧態依然とした思考のままアップデートされていないと言わざるを得ません。

オリンピック開催が皮肉にも、同調圧力をこんなにもわかりやすく感じさせてくれています。社会全体が『五輪礼賛』という同調圧力に晒されているように感じます。その急先鋒がテレビメディアであり、私たちが試されているようでもあります。

私たち一人ひとりがオリンピックやワールドカップのような国際イベントに興じない人々が必ず一定数存在することをそろそろ理解し、感動の押し付けは止めませんか。職場や学校などで、そういうものを観ていない人や興味がない人を『冷めたヤツ』と言ったり非国民扱いするのはもう止めませんか。一部ではそれをオリンピックハラスメント、オリハラと言うそうです。また7月27日にはこんな記事もありました。お時間がある時に読んでみてください。

時代はもう多様性にシフトしています。今はまだ企業だけが取り組むイメージが強い多様性ですが、そろそろ個人レベルでも多様性を理解し実践していく時代です。コロナ禍でのオリンピックとその報道を通して、日本は本当の意味で多様性な社会ではないこと、ダイバーシティなんてまだまだ絵に描いた餅で、インクルージョンなんて程遠いということを痛感しました。

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ポツンママ(ぼっちママ)を知っていますか?

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は入学式シーズンということで、少し軽い話題で。

タイトルのポツン(ぼっち)ママ、まさに私のことです。

ポツン(ぼっち)ママとは、ご想像のとおりママ友がいない、一人でいるママのこと、ですね。

普段は誰にでも友好的で人見知りもありませんが、私自身がママ友というものに関心がなく、繋がりがなくても必要情報は自ら積極的に動くので、不自由を感じたことが一度もありません。常に“一匹狼”(笑)の一人行動で授業参観や保護者会に出席しています。そして、我が子観察はもちろんですが、保護者や子供たちも観察しています。

当たり前ですが、おしゃべり目的で行くわけではないので話す人がいなくても平気ですし、「あのママ、ポツンママだ」と思われても、陰で「ママ友いなくてぼっち、かわいそう」と言われても、積極的ポツンの私はまったくのノーダメージです。

何とかママ友を作ろうと必死な保護者もいるようです。

観察していると、ボスママのような立場(?)の人がいて、場をとりまとめたり保護者会後のお茶会、誰の家に集まるか、ママランチなどを仕切っているようです。身振り手振りも声も大きなママさんや、お子さんが何人かいて学校をよく知るママさん、出たがりママさんが多いように見えます。

いつも一人でいるのが可哀想だと思われるのか何度かお誘いを受けたことがありますが、仕事でもないのに自ら“必要と感じない面倒そうな人間関係”をわざわざ作らなくてはいけないコミュニティに関わるのは苦手なので、笑顔で爽やかに辞退しています。

多分これも陰で何か言われていると思います。

疑問や意見があれば学校に聞いたり伝えればいいですし、学校では手に余るようなら教育相談や教育委員会もありますから。

ママさん同士が集まって家庭内不満をウダウダ(もっぱらご主人や生活の愚痴)、他者の家庭事情への立ち入り、トンチンカンなアドバイス、マウンティング合戦は性に合いませんし、それほど暇でもありません。

いや、いいんです。その“ママ友コミュニティ”が居心地よく楽しくて、無理のないストレスフリーなお付き合いができる人であれば。中にはサッカー団の保護者付き合いなどもあると思いますし。

ただ知っておいてほしいことがあります。

ママ友ワールド、ママカーストの中で誰かの顔色をうかがったり、同調圧力にモヤモヤしたり、『子供のため』と無理して付き合う苦痛と無駄時間を。

私はシングルマザーなので、ママカースト内ではなぜか最下層に位置するようです(笑)くだらないです・・・。

ママ友コミュニティに属していなくても子供の学校生活は問題なく送れますし、もしそれが原因でいじめがあったとしたら、それはそれで学校が対処すべき問題だと思います。もちろん、必要な委員や役員を逃げ回っているわけではなく、関わらないのは学外“ママ友(保護者)同士のお付き合い”だけです。

図太いのでそう思うのかもしれませんが【戦略的ポツン】、ものすごくラクです。空気を読めないのではなく、自分にとって不必要な空気は敢えて読まない・・・というスタンスです。

帰属意識が高く何かと群れたがる(安心するから)、良くも悪くも日本人気質の一部で、それをまざまざと感じるのがママ友ワールドです。

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同調圧力とKY、思考

新年明けまして、おめでとうございます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

本年よりコラムの掲載は毎月5の倍数日

5・10・15・20・25・30日

を基本に掲載していく予定です。

本年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

2020年 子年

2020年最初のコラムは、日本人なら誰もが一度は経験したことのある同調圧力とKYについて書こうと思います。

同調とは他者に“調子を合わせる(本意、不本意に関係なく)”であり、【同調圧力】や【同調行動】は環境や関係、感情によって生まれます。似ているように思われがちですが、

同調】と【協調】はまったく違うもの

です。

同調が他者に(自分の考えや意見を飲み込む、または自分の考えや意思を持たず、無意識的、意識的に関わらず)調子を合わせることに対し、協調は他者と考えや意見、また立場が違っても“互いに”譲り合ったり、擦り合わせをし協力することを言います。

深く考えずに適当に「そうそう、そうだよね〜、あるあるー!」と言っているそこのアナタ、それは共感や協調ではなく、ただの同調です。

協調は互いに助け合い、協力し合うことで調和を目指す前向きなものなのですが、同調はその裏側に不安や恐怖、忖度に面倒くささもあったりするので、“見せかけの調和”と言えるのかもしれませんね。

人は自分と同じ行動(考えや意見)をする人に対し、親近感を持ち安心感を覚えます。これは同調効果と呼ばれます。似た行動にミラーリング効果がありますが、これをわざとらしくない程度に意図的に行動に織り込むことで、相手との心的距離を縮める効果があります。

話を戻しますが、日本は古くから単一民族であったため海外ほど“互いに違う文化や考え方を尊重し合い、認め合っていく”機会に恵まれてきませんでした。

まだまだ絵に描いた餅でしかないダイバーシティという考え方ですが、真の意味でなかなか浸透しない背景には“皆同じ行動”や“多数派が正しいかも?”という考え方が、集団としての“まとまり”として良しとされてきたこと、何より幼少期から飛び出す個性より足並みを揃えること、協調性を求められながら育てられることで、集団の中で浮かないことや長いものに巻かれることが生きやすいことと学んでいます。学校教育がその典型でしょう。

こと日本社会においては一概に間違いとは言えないと思いますが、“他者(の評価、考えや思考)”を“気にし過ぎるあまり、自分を上手く主張できない”ため、海外では“自己主張できない、自分の意見を言えない、ノーと言えない日本人”と映ることも多いようです。

日本では多数派の意見に異論を唱えると「それはオカシイ」という空気になり(もちろんオカシイ時は少数多数関係なくオカシイのですが)、挙げ句「空気が読めない」と思われ、略して【KY】という新語が生まれたほどです(笑)

人間関係において軋轢を生まないコツは、アサーションなどコミュニケーションスキルを身につけておくことはもちろんのこと、

事と次第によっては同感するし共感もするけれど、自分の意思があるので異論があれば同調はしない。でも、他者の意見や考えは尊重し、擦り合わせが必要な場面では互いに歩み寄ることで、なるべく納得のいく着地点を探る努力は惜しまない

といったところでしょうか。

実際問題、立場が違う人間と意見交換をしたり、人が集まり意見を出し合う場面では多少なり同調効果は表れるので、そこにゆる〜い同調圧力は働くものです。

同調は自分の考えや意見を表明しなくてもいいので、一見とても楽チンに思えます。しかしそれは恐ろしいことに

自分に問う、思考する、を麻痺させていく

側面も持っています。長いものに巻かれることは、ラクで間違いないこともあるので、処世術の一つと考えるとあながち間違いとも言えないかもしれません。ただそれが行き過ぎると、今の官僚組織のように忖度、KYばかりが常態化して本来の役割や目的を忘れてしまいます。

しかし、近年“思考する”ことができない(わからない、不得手)人が増えてきていると感じる背景には、“ラクだから(嫌われたくないから)同調しておく”もあるように思えてなりません。

フランスの哲学者であり、また数学者でもあったブレーズ・パスカルは『人は考える葦である』と表現しました。「葦はか弱いものである。だが、人間は宇宙より偉大だ。なぜならば考えることができるからだ」と。

【考える】は、とても面倒なプロセスで、考えても考えても、頭から湯気が出そうになるほど考えても解がないことは多くあります。解を求めたがるのは人間のサガかもしれませんが、

解を求めることが目的ではなく【思考すること】こそが目的

と言い表すとわかりやすいでしょうか。

人間が考える葦ならば、思考しなくなった人間はただの葦ということになります。

考えても解がないから無駄だ、とは思わないでください。解がないこともまた解なのですから。

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