ASDはなぜ攻撃的と言われるのか【1】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

時として「ASDは攻撃的だ」と捉えられてしまうことがあります。

これは特性だけではなく、脳機能や本来その人が持っている気質も深く関係してくるので、一概に『ASD“だから”攻撃的』とは言い切れないということを注意した上で、さまざまな特性があるという側面からASDを理解すると何となくわかるかもしれません。

定型と言われる人たちと比べ、社会性/イマジネーション/コミュニケーションに弱さや違いがあるASDですが、独特のコミュニケーショスタイル以外にも多くの特性があります。

もちろんASDだからといって、皆が皆、同じ濃さで特性を持ち合わせているわけではなく、濃淡があります。これはASDに限らず、発達障害を考える上で重要なポイントです。

ある程度共通する特性としては、次に示すようなものがあります。『ある程度』というのは特性の濃淡により、強く出る特性とそうでない特性が人によってバラバラだからです。しかし、総じて次のような特性自体は持ち合わせていると言っていいでしょう。

思ったことをそのまま言ってしまう。

興味関心があることへの強い探究心。

空気を読むことが苦手。

急な予定変更や先の見通しが立ちづらいことに対し、強い不安・不快感情を持つ。

日常生活のルーティン化。

暗黙の了解や言語化されていないことを読み取ることが苦手。

他者の気持ちや感情を汲み取ったり、想像することが苦手。

マイルールが強い。

こだわりが強い。

(主に初対面の人との)雑談が苦手(特に意味のない雑談)。

気持ちの切り替えに時間を要し、ネガティブな感情をしばらく引きずる。

などなど。

これらの特性は意識的に見れば認識できることがありますが、目に見えないことが多いだけに、通常認識することは困難です。また、ADHDのように“忘れっぽい”“片付けられない”などとまったく違う特性も多くあります。

発達にアンバランスがあるとストレス耐性が低いためストレスを感じやすく、また、生きてきた中で否定されてきた過去からレジリエンス力(※)も低いので、リカバリーにも時間がかかります。切り替えが苦手な彼らはこの時間、とても苦しい(苦痛・不快・苦悶・無気力・絶望・自暴自棄などなど)時間を過ごしています。

※レジリエンス力:落ち込んだ後など、気持ちが乱れた後に立ち直る力。

次回はASDの脳機能や特性から考える、“なぜ感情コントロールが難しいのか?”をお話しします。

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TVドラマの主人公はアスペだらけ、を個人的に考察してみる【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回に引き続き、今回は『ドクターX』と『臨場』です。

「わたし、失敗しないので」が決め台詞の『ドクターX』の“大門未知子”。

孤立型風味のあるASD積極型でADHDもあるように思います。

人の話を遮り、何でもかんでも「私に切らせて!」は、自分の興味関心のある場面だと人の話を最後まで聞かず、被せたがるADHDの衝動性を感じます。質は違いますが杉下右京より、はるかに空気を読まないですよね(笑)

また、オペ時のあの集中力は間違いなくどちらの特性にも共通する過集中からくるものでしょう。手術というチマチマした細かい作業にじっくり取り組めるのはASDからの特性と思われます。他者からの評価をまったく気にしないところは右京さんに通じる孤立っぽさもあります。

ガチの孤立型と違い、自分のペースで他者と関わることに苦痛を感じませんが、自分の信念は絶対に曲げない頑固さがあるので組織の中では衝突が起き、結果浮きまくります。

それを気にしないあたりはやはりASDですね。

この中でダントツ空気を読まないのは『臨場』の検視官“倉石義男”でしょう。

亡くなった妻と植物を愛し、いつも自分で大切に育てた朝採り野菜をビニール袋でぶら下げ、きゅうりやトマトを齧りながらピリピリ感漂う現場に臨場します。←このエピソードだけでASD確定です(笑)

警察組織にいるにも関わらず、あの浮きっぷりは右京さんや大門さん以上に組織向きとは言えません。まさに我が道を行く、という感じですね。

倉石検視官に関しては、右京さんのような孤立型を感じながらも、以前結婚していた時は受動型ではなかったのかという疑念が生まれます。

ところどころ亡くなる前のエピソードが挟み込まれているのですが、孤立臭がしないんですよね。大切な人を亡くし、深く傷ついた経験から他者との間に垣根を作り、孤立型っぽい(且つ尖りまくり)表れ方をしているように見えます。

倉石検視官も「根こそぎ拾う」と言っているように、物凄く細かな小さな違和感に目がいくタイプです。植物の世話をしっかりやり、雑然としていても無秩序にとっ散らかっていないあたり、ADHDっぽさは感じられません。

余談ですが、『遺留捜査』の“糸村聡”もまたASDと思われます。常に穏やかな雰囲気は受動型を思わせます。

一方遺留品へのこだわりは尋常ではなく、ドラマでは同僚刑事たちに呆れられています。いつの間にかコンビを組んでいる相手そっちのけで、遺留品の真相や意味を捜査し、どこかへ行ってしまうマイペースっぷりはASDそのものです。

月島中央警察署刑事課、京都府警察本部捜査第一課特別捜査対策室においてもマイペースっぷりは変わりません。同じく異動した科捜研の村木さんを毎回振り回す空気を読まないあたりもASDらしく、また『科捜研の女』“榊マリコ”と通底するものを感じます(笑)

糸村さんがこだわる遺留品は事件の真相を暴くというより、加害者や被害者、あるいは被害者家族や関係者の誤解やスレ違いを「僕に3分だけ時間をください」と頼んで、彼らの誤解やスレ違った思いを解きほぐしていきます。そのおかげで、切ない中にも心温まる思いになります。

職業柄か、ドラマや映画を観るにも“特性”“認知”が気になってなかなか純粋に内容を楽しめません(笑)電車やバスでも些細なことでキレている人を見かけると心理背景が気になりますし、スーパーのレジで喰ってかかっている高齢者を見ると、認知の歪みが気になったりします。

もちろん、息子にムカつく時にはそのムカつきに対し、自分の認知を瞬く間に検証するクセもあります。←メタ認知2021年8月20日2021年8月30日のコラム)。

普段からそうなので、疲れるという自覚はないのですが、案外小さな疲れが澱のように降り積もって心が凝っているのかもしれません。そんな時は普段あまり意識していないその季節独特の空気を味わってみたり、用はなくても友人やパートナーと話をして幸せを感じたり、“猫吸い”したりしています。

皆さんはどのように心のコリをほぐしていますか?

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TVドラマの主人公はアスペだらけ、を個人的に考察してみる【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

熱狂的なファンも多く、長く続いているドラマ。誰もが一度は観たことがあるドラマ。

『相棒』『科捜研の女』『ドクターX』、長く続いているわけではないけれども、クセの強い主人公が活躍する『臨場』。すべてテレビ朝日のドラマなのは偶然ですが(笑)

好き嫌いはともかく、どのドラマにも共通するのが主人公が個性的でなかなかアクの強いキャラクターだということです。

それでは考察していきます。

まずは『相棒』の“杉下右京”。

杉下右京は、間違いなくADHDとの重複がないASD孤立型です。

こだわりの紅茶以外、超論理的思考にズバ抜けた解決力、何もかも私のパートナーと被って仕方ありません(笑)

組織に馴染めず(そもそも馴染む気がない)単独行動を好み、空気は読まない(読めない?)、自分から積極的に他者と関わりを持たず孤立することに孤独を感じず気にもしない右京さん。

「細かいことが気になるのがボクの悪いクセ」と自ら言っているように、人が気にしないような細かい部分に目がいきます。

ASDはよく“木を見て森を見ず”と言われます。まさにその部分です。

ただ、木を見て森が見えないのではなく、多くの定型が森を見てから個々の木〜枝葉にフォーカスしていくのに対し、ASDは枝葉から木を見て、カメラが引くように全体像の森を見る、という感じです。定型とは逆の見方ですね。

それに詳しい上、知能が高く論理的でこだわりは時として行き過ぎてしまう強い正義感と紅茶。

次は『科捜研の女』の“榊マリコ”。

科捜研の研究員や解剖医の風丘先生との空気を読まないやり取りは完全にASDで、捜査一課の土門刑事との関わり方や、人見知りもなく他者との関わりをむしろ楽しんでいるのでASD積極型です。

そもそもマリコ自身、職業が研究員という時点でASDらいしといえばらしいですね(笑)

自室もしっかり片付けてキチッとしており、「ま、いっか」「後でやろう」的なADHD特性はなさそうなので重複なし。

やはり誰も気にしないような細かい部分に目がいきます。納得いくまで自分の考えを検証追求し、妥協がありません。

自分なりの正義を貫こうとするあたり、ずいぶんキャラクターに違いはあるものの、右京さんと同じものを感じますね。

マリコが恵まれているのは、あの強烈な個性(特性)にも関わらず、周りの人たちに恵まれていることで、浮いても皆から温かく見守ってもらえていることでしょうか。それには事件解決という実績が伴っているからだと思いますが(笑)

続きの【2】では『ドクターX』『臨場』を考察します。

カサンドラ愛情剥奪症候群とアスペルガーについての交流会を兼ねた勉強会にパートナーと参加してきました【後篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は前回に引き続き標題にあるとおり、ASD当事者であるパートナーがどう感じたのかをインタビュー形式で聞き取ってみたので、それを書きたいと思います。

質問は全部で4つです。

1)私以外とはカサンドラ当事者のいる勉強会や交流会に参加したことはなかったと思うが、実際に参加してみてどうだったか?

最初は“ASDバッシングの連中の集まり”と思っていたから警戒感しかなかったが、今回の勉強会の参加者の人たちに限っては、バッシングするような人たちではなかったので、徐々に警戒感がなくなり最終的に安心感があった。それから、参加していたカサンドラ当事者の人たちは、ASDを理解したい気持ちはあるものの、それができないもどかしさと、いつの間にか自分基準の考えや感情を押し付け、それに応えてくれない相手に苛立つ気持ちが同居している印象を受けた。常にそれらが彼らの中で二律背反しているんだろうな、と思った。

2)今回ASD(ほとんどはADHDと重複)当事者とも話をする機会があったが、自分以外の当事者と話をしてみて思ったこと、考えたことは?

率直に思ったのは、こういうASDもいるのか、ということ。ASDというベースは同じだからか、彼らの話の中で共感や理解できる部分、自分にも思い当たる部分はあった。ただ決定的に自分とは違うなと思ったのは、今までの人間関係や恋愛関係で自分が思い至らないせいで相手の気持ちを理解できず、結果として相手を傷つけてしまったと悩み、自信喪失すらなっているように見えたことだ。自分は孤立型のせいか、そういうふうには考えないから、その点で悩んだこともなければ自信喪失になったことがないだけに、それはそれでツラいだろうなと思った。

3)途中でワークがあって定型(たぶん)と思われるカサンドラ側の意見も聞いたと思うが、重複のないASD孤立型としてどう感じたのかを聞きたい。

面倒くさいな、が第一印象。言っていることは理解できる。同時にカサンドラ側の思考回路とは明らかに違うことを実感した。自分の思考回路はというと、どうしようもないことに対しては諦め、少しでもそれを癒すような、あるいは和らげるような解決策を考える思考回路。対してカサンドラ側のそれは、どうしようもないものに対して何か抗いたい気持ちがあると感じた。ASD的思考はその部分がない。だからその抗いたい気持ちに共感しにくいのかもしれない。カサンドラ側の抗いたい気持ちの言動に、一度共感することがどこか“手続き”のような気がしたから、面倒くさいと思ったのかもしれない。

4)私も元カサンドラだが、現在私と上手くいっているのはなぜだと思うか?

君がカサンドラ状態の時は、あたかもこっちが加害者だと言われているようで不愉快だった。そんな時期を経て思うのは、基本的にはお互い様なことだけれども、あえて言えば、君がカサンドラを脱して以降、適度な距離感を体得したからなのか、それとも適度な距離感を体得したからカサンドラを脱したのか、いずれにしても『適度な距離感の体得』なしでは今はないと想像する。それと結果論になるが、ASDにもいろいろなタイプがいる中で、自分はたまたま君の受容範囲内のASDであったこともあるかもしれない。同じASDでも君の受容範囲を逸脱したASDも存在するだろうから。その他の要因としては、互いにネコを飼っているというのも意外と大きいと思料される。

一緒に参加した勉強会&交流会のパートナーへのインタビューでしたが、「カサンドラ脱却のヒントは両者共が(ここ非常に重要)認知の違いを理解し、受け止めていこうとする努力と、何より深い愛情が必要で、それがなければASDと定型の間に横たわる乗り越えなきゃ(上手く)いかない深くて暗い河は乗り越えられないんだろうな」という感想を持ちました。

深刻なカサンドラ状態は脱しても、日々の暮らしの中でモヤモヤイライラを積み重ね、心的疲労が重なってしまいがちな大切な友人もいます。私にできるのは、その友人の愚痴袋がパンパンに重たくなる前に話を聴くことしかできないのがもどかしいところです。

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手厚い個別配慮の弊害?

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいではありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

このコラムでは幾度となく書いていますが、息子は重複の発達障害(ADHD・ASD)です。知的(IQ)には問題ないので療育手帳はありません。

日常生活に困り感を感じやすい特性をどう工夫すれば人間関係を含め学校生活が躓き少なく送れるのか?

小学校、中学校と私を中心に通級(情緒級ともいう)担任、心療クリニックの担当医、スクールカウンセラー、学内特別支援コーディネーター、教育相談員、児童相談所のケースワーカー、学校のクラス担任、学年主任、校長らとチームを組み、共通理解と情報共有、課題の洗い出しと支援計画作成のため、年2回のカンファレンスを繰り返し、合理的配慮や個別支援のスキームを作ってきました。

早い時期からの数々の個別支援や合理的配慮により、中学卒業間近の今は学校生活に支援や合理的配慮も必要なくなりました。ただそれは生徒間にはクローズド(発達障害であることを他の生徒にカミングアウトしないこと)でも、学校や関係機関にはフルオープンで周りの大人がいつでも支援できる環境を整え、息子を見守ってくれたからに他なりません。

特徴のある私立高校以外に、ほとんどの公立高校には支援級はおろか通級もありませんから、高校進学にあたり本人の成績はもちろん、私は“どの程度の個別支援/合理的配慮(きめ細やかな指導が受けられるのか)”も考えていました。

生きづらさを感じたり中学不登校児を受け入れ“きめ細やかな指導”で定評のある公立高校は、学習カリキュラムが柔軟で特徴的ですが、大学進学はあまり望めません。学校説明会に行きましたが、大学進学を強く望む息子には魅力的に映らなかったようです。

通級面談時に衝撃的な話を聞きました。

通級の先生曰く「確かに〇〇高校はきめ細やかな指導と個別支援が整っています。しかし、大学進学を視野に入れた学習カリキュラムではないことから、ほとんどの卒業生は就職という進路選択になります(ならざるを得ない)。小中高と特性に合った手厚い個別支援ときめ細やかな指導を受けて卒業した途端、いきなり社会の荒波に放り込まれるわけです。これがどういうことに繋がるかわかりますか?」と。

当たり前ですが、障害(特性)をオープンにして配慮を求めなければ、見てわからない障害に対して“今まで学校で受けてきた”ような細やかな配慮は(就職先には)ありません。実際は、わからなければ知らなければ何に困り感があるのかわからないから配慮のしようがない、のですが・・・。

あたたかいきめ細やかな支援のある居心地の良い学校生活から、いきなり配慮も支援もない社会に放り出された結果、社会不適応を起こす卒業生が少なからずいるのです。

オープン就労、クローズ就労でも違いはありますが、これに関してはまたの機会に詳しく説明したいと思います。

(療育)手帳持ちでもなくクローズドで生きていきたいと考える息子は、今までのようにいつまでも支援や配慮を求めるわけにはいかないのです。困り感があることには自分で対処できるライフハックを見つけ、それでも難しいことは配慮をお願いできるコミュニケーション力が必要です。そしてそれはすべて訓練です。

入試に合格すればの話ですが、息子はこれから合理的配慮はあっても個別支援は極めて薄い公立普通高校に進学します。中学までとは違う学校生活、学習内容、人間関係。

生きづらさを今まで以上に感じ、悩むであろう高校生活が始まろうとしていますが、支援の手は少しずつ緩め、社会に飛び立つ準備に入る段階にきた、ということで本人から適切なヘルプが出ない限り私は手も口も出さず、ますます生ぬるく見守りたいと思っています。手は放しても目は離すな、という気分です。

障害特性に合った個別支援、絶対に必要な支援です。

小学校、中学校における個別支援は“自分の特性を知り、周りに配慮をお願いする時に、困り感を伝える情報ベース”になると同時に“少しでもできることを増やしていく訓練の場”、両方の面を持ち合わせています。

今まで発達障害の数々の特性を持つ我が子に必要なのは『きめ細やかな個別支援』と考えていましたが、いずれ社会に出て組織に属し就労していく将来を見据え、高校進学を機に考え方をシフトしました。

『可愛い子には旅をさせよ』、まさにこの時がきたような気がします。

手厚すぎる支援を続けることは、一歩間違えば本人の“できるようになるかもしれない”可能性を狭めてしまうことがあるのだ、と改めて深く考えました。

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親/当事者が発達障害と向き合うということ【2】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいではありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

2月になりました。寒さが厳しく、またほとんどの都道府県にまん延防止重点措置が発令されていますが、如何お過ごしでしょうか。

前回からの続きで、親/当事者が発達障害と向き合う【2】として、向き合う上での重要なステップとしての具体例を書こうと思います。

それは、親は【我が子トリセツ】を、本人は【自分トリセツ】を作ることが挙げられます。

私が住む自治体は希望者に対し、特性がある子供を持つ保護者向けに【うるおいファイル】なるものが配布されます。知らない人がほとんどだと思うので、周知不足だと思っていますが・・・。

このうるおいファイル、生育歴から通院服薬歴、集団生活や家庭生活など多岐に渡り細かく記載できる仕様で、私も息子が8歳からチマチマと書き込んでいます。これは我が子トリセツ&本人が自分トリセツを作成する際の貴重なデータベースとなるのです。

出来ない(苦手)ことがあるのが発達障害(グレー含む)です。出来たほうが本人も周りもラクなのは確かです。ですが、やり方を変えてみる、これぐらいでいいかと望むレベルを少し下げる、協力してもらう、などやれることはあるものです。

究極の面倒くさがりで、早起きしてもなぜかダラダラして毎朝遅刻寸前で飛び出す息子は、“お風呂から上がったら制服の下に着る体操服をパジャマの下に着て寝る”という、自分なりの時短を考えたようです。親としては『?』ですが、自分で考えた末のハックなら仕方ないか、と。

まだまだ改善の余地はありますが、忘れっぽいことを減らすためにスマホのリマインダーを使い、集金袋は玄関扉のノブ部分真上にマグネットで貼る、など工夫しているようです。「もっとこうすればいいのに」と思うこともありますが、不自由を感じ自分で対策を編み出さないと意味がなくダメなので生ぬるく見守っています。つい口を出したくなるところを、生ぬるく見守ることが重要です。

障害を(特性)を認めるとラクになります。苦手だからこそ「どうすればできるか/ラクできるか/効率良いか」を考えられます。苦手なことを正攻法だけでやらせようとすると親はイライラ、子供反発→衝突します。このあたりは一般的なことかもしれませんね。

頂上を目指す登山で考えてみましょう。頂きは一つでもいろんなルートがありますよね。私の考える頂上(目標)は、息子が社会的に自立生活できることです。

Aという険しいルートが最短でAを選択する人が大多数だとしても、Bという多少なだらかで時間がかかるルートや、Cというさらになだらかで手摺もあるが時間はもっとかかるルートもあります。あるいはDという時間はCよりも相当かかるけど景色がとても良いルートもあるかもしれません。Bが合っているようならBを選択、Cでのんびりが合ってるならCを選択、その子のペースで。

こう思えるとイライラがなくならないまでも、ほんの少し余裕が生まれるものです。

できないことや苦手なことがあっても、そんなことであなたの価値は変わりません。

頑張っているお母さん、お父さん、頑張っている子供たち。頑張っているすべての人たち。頑張っている自分をもっと認めて褒めてあげてくださいね。

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親/当事者が発達障害と向き合うということ【1】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいではありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

現在15歳の息子は小3の終わりに、今も継続通院中の児童精神科でさまざまなテストを受け、発達障害(ADHD・ASD)の確定診断が下りました。

私は早くから違和感を感じあちこちの窓口に相談していましたが、発達障害は見た目や短時間過ごしただけではわからないことが多く、「子供なんてそんなものなのに、親が気にし過ぎで障害を作り出しているんじゃないの?」←これ、子供がいない夫婦に実際に言われました。「そんなに子供を障害児にしたいなんてどこかオカシイ」など、無理解と無知な知り合いから凄まじい言われ方をされた過去もあります。

腹が立つより、あまりの無知さと自分はなんでも知っていると思っている傲慢さを憐れに思ったのを覚えています。

障害を認める。

そこには親も子も高いハードルがあることを知っています。それは偏り「障害は“害”と付くくらいだし人より劣っているなんて恥ずかしい」という思いがあるからではないでしょうか。

“ち害(違い)”くらいにしか考えていなかった私は、確定診断に心からホッとしたのを憶えています。「あー、だから〇〇だったのね」「だから〇〇ができなかったのか」と行き場がなく掌に余っていたパズルがピッタリ嵌った瞬間でした。

そんな息子は小学校高学年で登校渋りから不登校にもなりました。発達障害(グレーも)があると、大多数の定型児(※)向きにカリキュラムを組まれた学習・授業、定型児だらけの学校生活に息苦しさや生きづらさを感じ、登校渋りや不登校になる確率が高いのです。

※定型:発達障害ではない人のことを『定型』と言い、定型児とは発達障害ではない児童の意。

「行けないもんは仕方ないよ、行きたいけど行けないんだもんね」・・・これは息子が絞り出すように「行きたいけど行きたくない(←行けない、ではなく行きたくないという表現により深い苦悩を感じます)」と泣きながら言った時、私が返した言葉です。

今以上に日々修羅場でしたが、二人でおにぎりを持ってピクニックしたり、部屋キャンプしてみたり好きな具を乗せまくったピザを一緒に作ったり、博物館へ行ったことは今となっては良い思い出です。現在進行形で尖りまくりの思春期真っ最中なので、思い出にしてしまうのは早いかもしれませんが(笑)

中学校では本人の希望もあり、一部の先生方を除き学校生活はクローズド(障害をカミングアウトしないこと)で中学生活を送りながら、他校の情緒級(通級)に通っています(入学した中学校には情緒級がなかったため)。

どんなに頑張ってもできないこと、工夫しても苦手なことは多々あります。面倒臭がりで忘れっぽいのと、タスク管理のガバガバさ、思い込みの強さや見通しの立てられなさからいつも何かを探していますし、意味不明なマイルールを振りかざしてはみるものの、本人が頭『???』になっていることもあります。

何かを探しているうちに何を探していたのかわからなくなり、良くも悪くも楽観的なADHD「ま、いっか〜」になることも多々あります(←良くない、困るのは本人)。好奇心旺盛で衝動性に抗えないADHDですから、本人はできるつもり(やりたい気持ちもあり)で自分の脳のキャパシティを考えず、いろいろなことに手を付けますが、そのほとんどは途中で興味を失うか忘れ去られるか得意の「ま、いっか」で、結果放ったらかしになります。

学校生活で周りに特性で迷惑をかけないように必死で頑張っている(らしい)分、家ではあり得ないADHDっぷりを発揮し、これが親子間衝突を引き起こします。脳のキャパシティが少ないのが発達障害で、多くの情報を同時進行で処理(マルチタスク)するのが苦手ですが、見た目にわからない障害だけに、“当たり前に”できる大多数と同じように“当たり前に”できるだろうと思われます。

本人が自分の脳のクセやキャパシティを知り、優先順位を付け、出来ること出来ないことの振り分けができて、苦手なことを上手に他者にお願い(助けてもらう/頼る)できるようになることが必要です。そのためには自分の特性を受け止め、受け入れ、理解していくことはとても重要なステップになります。

今回はここまでとします。次回は続きとして、特性を受け止め、受け入れ、理解していく重要なステップの参考として具体的に書こう思います。

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綺麗事では生きていけない

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

生きづらさを感じ「なぜ僕はこんなにポンコツなの?生きてるのがつらい」と泣くこともある、発達障害重複持ちの息子を育てている一人の母親として、“発達障害はハンデにならない”、“個性的なことは素晴らしいこと”などと聞くと、正直なところ「なに無責任に綺麗事言っているんだか」と思ってしまいます。

多様性を叫んでもイマイチ理解が進まない日本ですが、百歩譲って“個性的なことは素晴らしい”は良しとするにしても、日常生活でかなり困り感があり、時間管理がガバガバで先の見通しが立てられず、狭い範囲ですらしょっちゅう物がなくなり、ヤル気が起きないことは先送りして結果忘却の彼方へ追いやられ、自室やバッグはカオス。実行機能の弱さから、計画立案は得意でも途中で放り出すか、そもそも実行すらしなかったり、独特の認知から傷つきやすさを常に抱え、冗談も通じない・・・感情的になりやすく人間関係に問題を抱えがちです。

これのどこが『ハンデにならない』なんて無責任なことを言えるのでしょうか?

特別支援や個別配慮をしなくてはならない発達障害特別支援法があっても、現実の教育現場では教師の仕事量は増加の一途を辿り疲弊、正しい知識や理解が足りず圧倒的に人員も足りていません。増え続ける発達障害児やグレーゾーンに対し支援級は足りておらず、授業を抜けて校区を跨いで支援級に通級しなくてはいけない現実。

社会に出ると言わずもがな手帳がなければなかなか個別配慮には繋がりません。たまたま職場や人に恵まれ配慮してもらえることもありますが、それは幸運なケースだと言えます。自分の特性を理解し受け入れていなければ、口頭や文書でも配慮をお願いすることすらハードルが高く、コミュニケーションに課題があるとそれを上手く伝えることも難しいのです。

抽象的な理解が苦手でマルチタスクに対応できないので指示は具体的に一つずつお願いします、と伝えなければ、当たり前に大多数の人が出来るであろう抽象的な伝え方でマルチタスクを活用しなくてはできない仕事の指示を与えられます。それで何度言われても出来なければ、残酷にも「使えない」「使いにくい」「だらしない」「無能」と陰口を叩かれ、パワハラ体質な上司や組織だと面と向かって言われるかもしれません。退職へと追いやられることも考えられます。

常に生きづらさがある息子は「ハンデにはならない」なんて「何の慰めにもならない、余計惨めになる」と怒りを爆発させていました。

根拠のない自信には満ち溢れているので自己評価は高いくせに自己肯定感は低めの息子に、普段から否定的なダメ出しはしておらず「頑張っても出来ないことがあるのが発達障害、でも苦手なことでもやらなきゃいけないことはたくさんあるよね。じゃぁどう工夫すれば出来るか、やりやすいか一緒に考えようか」と話し、一緒に考えています。

15日日曜日はお盆のためコラムは休載します。次回は20日金曜日からの掲載となります。

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毎日何かに困っている、困らない日はない

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

よく言えば『おっちょこちょい』『天然』『好奇心旺盛』でムードメーカー。悪く言えば『時間や約束を守れなくてルーズ』『片付けられなくてだらしない』『面倒くさがりで怠惰』と周りから困り感がわかりやすいADHD。

よく言えば『ミステリアスでマイペース』『自分に正直』。悪く言えば『空気を読めない』『共感がなく直球過ぎる物言いが人を傷付けたり不愉快にさせる』『字面どおり受け取り冗談が通じなくて面倒くさい』『マイルールがあり、理解不能なこだわりがある』というASDでは、同じ発達障害でもひと言では括れません。

本人はもちろんですが、周りの戸惑いや困り感の“種類”がまったく違うので、

何より大切なのは確定診断ではなく、【自分の脳のクセを知る】ことです。

本人が脳のクセを知り理解することは、どのような困り感がどんな場面で表れるのかがわかり、工夫対処しやすくなると同時に周りの人たちに協力や配慮をお願いしやすくなります。

発達障害は“ASD”だけ、“ADHD”だけ、のような単体は実は極めて少なく、LDや協調運動障害を持ち合わせていたり、ADHDにASDが加わって重複しているケースがほとんどです。

そして忘れてならないのが、強く表れている特性もあれば“風味”程度にしか表れない特性もあるということです(だからといって“特性がない”わけではありません)。同じ診断名でもグレーでも人の数だけ多様な表れ方をするのが発達障害です。

本コラムでも何度かお話しているように、表面だけを見て“片付けなくて散らかっている”でも、ADHDからくる特性かASDからくる特性かでは、その理由も対策も変わってきます。

要領が悪く並外れて不器用、究極に面倒くさがりで生きていくのが大変そうな息子を見ていると、興味関心がある物事以外はどれほど自分にとって重要であっても、取り掛かるハードル自体がとても高いように見えます。

その一端を紹介すると、使った食器を洗うために茶碗、お椀、グラス、最後に皿と箸と食べ終わる度にキッチンを忙しなく何度も行き来して運びます。いつも大きなトレイに載せて食べているので(いろんなものをひっくり返すので被害を最小限に止める目的と対策)、食べ終わったらすべての食器をトレイごと下げれば合理的で一度で済むのですが・・・。

行動すべてが雑で不注意が服を着て歩いているような息子は、動く度に躓く、何かを引っ掛けて落とす、ひっくり返すことが日常です。気の進まない、やりたくないこと、やっている何かを途中で中断しなくてはいけないこと、楽しくないことは本人にメリットデメリット関係なく、漏れなく『面倒くさい』に分類されます。それでもその面倒をやるうちに、今度はそれまでやっていた作業や、やらなくてはいけない作業を忘れてしまいます(読みかけの本をしまう、畳んだ洗濯物を片付けるなど)。

日々やることをルーチン化しよとしても、それが本人にとってどうでもいいことだったり面倒さを伴い、気が進まないことだと定着しません。その典型的な例が薬の服用です。もう小学生からずっと服用しているので、習慣になっていてもおかしくないのですが、未だに定着していません。なので、服薬管理は今でも100%私がしています。服薬させるためにいろいろと試行錯誤した結果、今は朝の小皿と夕方の小皿を用意し、服用する薬を1日分ずつ出しておくこと、でした。にもかかわらず、毎回数度の声かけと「間違わずに飲んでね」は必須です。

1日にしている数え切れない声かけを減らし、自分で気付いてできることを増やしていかなくてはいつまでも他者頼みのままです。しかし、服薬管理だけは飲み忘れから副作用が出やすく体調悪化に繋がるのと「できないんだからお母さんがやってあげるしかないでしょ?」という主治医の言葉で“仕方なく渋々”やっている状態です・・・。

大人になるまでに、どれくらいできることが増えるでしょうか・・・。

言わなくては定着しない、繋がらない。言い続けても定着するかどうかわからない。

要するに“当たるかもしれない宝くじ”みたいなものですね。常に脳の活性化ができてボケなくて済みそうです(笑)

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障害を免罪符にしてはいけない

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

重たいタイトルですが、そのままです。

(発達)障害を持つ子供の親として日常生活を送る中で、黒い点だったものがいつしか私の胸にモヤモヤと広がっていき、その出所を辿っていった先にあったのがタイトルの【障害を免罪符にしてはいけない】という思いでした。

重複発達障害を持つ息子は、いずれ自分に合ったライフハックを見つけ、社会生活を営むために自身や工夫しながら生活スタイルを整えていく必要がありますが、今はまだ中学生なので日常生活のあらゆる場面で声がけや配慮が必要です。

何でもできるスーパーマンみたいな人間はこの世に存在しませんが、障害故にできないこと、苦手なことが人よりも多くあり、誰かの手や声がけ(今はもっぱら親の手と声がけ)を必要としなくてはいけない場面がこの先もあると思います。

息子には早い段階で障害告知をしていて、段階的に特性を伝え、理解に繋げていっている最中です。どう頑張ってもできないことがあるのは仕方ないことですが、「そのくらいやってくれたっていいじゃん!」「僕にはADHDがあるんだからやってくれて当たり前じゃん」という言葉が出た時には思いっきり叱り飛ばしました。

サポートしてもらうのは“当たり前”ではないのです。

「配慮やサポートはやってもらって当然」この考えは(定型、身体障害、発達障害問わず)とても危険です。サポートする側が『困っている人を助けるのは人として当たり前』と考えるのと、サポートをしてもらう側が『やってくれて当たり前』と考えるのは大きな違いがあります。

「気をつけてメモを取るように心掛けていますが、忘れっぽいところや他の作業に取り組んでいる時には、他に注意が向きにくいのでひと声かけてくれたら助かります」が本来の気の持ち方だと思っているのです。これが「忘れっぽいって言ったんだから声かけてくれてもいいじゃない(声かけてくれるのが“当たり前”)」だと、誰も協力したり力になろうという気は起きません。障害があろうとなかろうとだと思います。

障害がない人でも、誰かの手やサポートを必要とすることがあります。例えば、外国人と接する時、英語を話せない場合。身近に英語を話せる人がいれば力を借りようとしませんか?その時『俺は(私は)英語が話せないんだから、話せるあなたが相手をするのは当たり前!』と思うでしょうか。大概は「英語を話せないので、ちょっとお願いしてもいいですか?」に自然と態度がなっているはずです。障害があってもこの心持ちが大切だと思うのです。

【やってもらって当たり前】

とても傲慢な考えに思えませんか?少なくとも私にはその姿勢が傲慢で偉そうに感じます。そんな態度をされたら、とても不愉快になると思います。

【共生社会】

とても良い言葉ですし、理念も素晴らしいと思います。それには障害があろうとなかろうと「お手間お掛けします」「いえいえお互い様ですから」「ありがとうございます、助かります」「何かあったら声をかけてくださいね」・・・支援や配慮を何もしたくない、と言っているわけではありません。お互いに気持ちよく社会生活を送る上で、この姿勢が何より大切なのではないか?と考えているのです。どちらかが不愉快な思いをしたり、我慢を強いられる社会は共生とは言えません。

不必要に腰を低く「申し訳ありません」「すみません、ごめんなさい」と生きろなんて、これっぽっちも思いません。

「ごめんなさい/申し訳ありません」も「ありがとう/ありがとうございます」も魔法の言葉ですが、支援や配慮に対しては「ありがとう/ありがとうございます/助かります」の気持ちが何より大切な気がするのです。所謂、【謙虚な姿勢】ですね。

恥ずかしながら私は並外れた方向音痴で、いつもパートナーには手間をかけさせていますが「方向音痴でごめんね」ではなく「いつもありがとう、助かる!」です。これが「方向音痴って知ってるんだから教えてくれたっていいじゃない/教えてくれるのが当たり前だよね」だと、わかっていてもパートナーはカチン!とくるはずです。(実際パートナーに、もし私がそういう態度だったらどう思う?と聞いたことがありますが、「方向音痴以前に人としてダメだ」と言われました)

何が違うのかというと【感謝】の気持ちを常に持っていることです。

「わかってくれて当然」「やってくれて当たり前」

どんなに関係や距離が近くても自分以外この世は全部他者です。あなたを気遣ってくれるのは、気遣ってくれる人のあなたへの“好意”や“愛情”で、それは当たり前ではない、とわかると感謝の気持ちが生まれるのではないでしょうか。夫婦関係にも通じるかもしれませんね。

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