親子でも他者間でも大切、親子だからこそ大切にしたいこと

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

私は現在進行形で発達障害重複を持つ思春期真っ盛りの、面倒くさい息子を養育するシングルマザーです。

修羅場の峠は越えたように思いますが、定型と言われる子供を養育している親に比べると、やはりぶつかり合いは多いのではないかと思います。

WAISで言語は高い息子。でも、特性による認知の歪みから他者間コミュニケーションにズレを生じやすく、また障害特性ゆえに行動に親はモヤモヤイライラしてしまうのが日常です。

さすがにもう血の雨は降りませんが(笑)、減ったとはいえ言い合いになるにもこれまた日常でです。そんな時、息子は自分の部屋に私はリビングで物理的距離を取り、クールダウンします。その後は必ず「さっきは嫌な言い方をしてごめん」「私こそキツイ言い方してごめんね」「実は学校で嫌なことがあって・・・」という流れです。

思春期真っ盛りのこの時期は親に反発しまくる反面、甘えたいというアンビバレント(相反する感情などを持ち葛藤する)な時期でもあります。「母さんの言うことは正論過ぎてムカつく」と言われたことがあります(笑)可愛いさと悪魔が同居していて「ツンデレか!?」と思う毎日ですが、ふと「あー、大人の階段を上ってる最中だもんね」と思ったり。

多少落ち着いたとはいえ、壮絶な親子バトルを繰り広げていた過去を持つ我が家ですが、今の私と息子の関係はかなり良好と言えます。言い合いになる時はあっても、ほとんどは落ち着いて話ができるようになりました。時々ヘンなテンションになり、いきなりタコ踊りを披露してくれる息子に対抗して、私も息子が「お、おう・・・(汗)」な反応をするような返しをしますし、買い物には嫌がらずに荷物持ちとして同行してくれます。外食にもホイホイついて来ます。

何より、「何か困ったことがあれば、かーちゃんはちゃんと話を聞いてくれる、力になってくれる」と思ってくれているようです。ありがたいですね。

その信頼関係のベースにあるものは何なのか?を考えた時に、小さなことでも家庭内に「ありがとう」が当たり前にあること、ちょっと時間はかかっても(クールダウンする)、お互いに「ごめんね」がこれまた当たり前にあることもあるのではないかと思いました。

家族だから言わなくてもわかってくれるはず←家族は血の繋がっただけの(夫婦なんて血も繋がっていない他者)他者ですし、そもそも自分以外、世界中の人は皆他者なのですから「言わなくてもわかる」なんてあり得ません。自分以外、エスパーならわかるかもしれませんが(笑)「言わなくてもわかってくれる」なんて、傲慢以外の何ものでもありません。

家族にいちいちお礼や謝罪なんて照れくさい←恋人に面と向かって「愛してる」と伝えるわけでもないのに、何だか照れくさいの使い方は間違ってますし、大人としてはイマイチカッコ悪い考えに思えます。歳を重ねたよい大人だからこそ、他者の小さな好意や厚意に対し、意識的に「ありがとう」「すみません(ごめんね)」が言えるのではないでしょうか。

「ありがとう」も「ごめんね」も人間関係を柔らかく、他者の気持ちも柔らかくする言葉です。

これからもパートナーに、子供に、友人に。もちろん親に対しても素直に言える自分でありたいと改めて思いました。

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ファシリテーション【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ちょっとご無沙汰しておりました(笑)最近気温がこの時期にしては低いな、と感じています。体調は大丈夫でしょうか?

さて、ファシリテーター、ファシリテーションという言葉を聞いたことがあると思います。

リーダー、司会進行、議長などとは違い、もちろんカウンセリング、メンターやコーチングとも違う・・・ファシリテーションって何?ファシリテーターって一体何をする人?

今回はファシリテーター、ファシリテーションについてお話ししようと思います。

ファシリテーションとは、ワークショップやプロジェクト、会議などにおいて、相互理解を深め、自律的に課題解決に向け合意形成のもと、業務遂行し問題解決に向かうことを言います。

ファシリテーションにはチームに対し“場作り”“対話力”“合意形成”という手法を使うため、この3つはファシリテーターの必須スキルになります。

解決を促しサポートしていく立場から、支援者という位置付けが一番適切かもしれません。

コーチングもファシリテーションも課題に対し“自律的な解決を目指す”ことに変わりはありませんが、2つには明確な違いがあります。

コーチングは個人に対しておこなわれますが、ファシリテーションはチーム、集団に対しておこないます。もう一つの違いは、カウンセリング/セッション/コーチングでは個人に対して“自身の認知/行動をより深くフィードバックしていくことから得られる気づき”により問題解決を促すのに対して、ファシリテーションでは他者(その場に集うメンバー)と関わる相互作用からの気づきにより、問題解決の糸口を模索します。

ファシリテーションでは他者との関わり合い、協力や意見交換をする中で互いの違いを知り、生まれるシナジー効果を狙います。

この『相互成長』が一番の違いだと考えます。

次回はファシリテーターの役割についてお話しします。

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価値観【4】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

土曜日あたりから天気が悪い3連休となってしまいましたが、如何お過ごしでしょうか。

さて価値観も最終回となりました。前回の価値観の例をピックアップして、あるいはご自分で付け足しなどして、ご自分の人生のガイドラインを確認することはできたでしょうか。

今回は価値観が合わない人とのコミュニケーションについて書きたいと思います。いろいろなところで書かれているとは思いますが、ここに書くこともご参考にしていただければ幸いです。

以前のコラムで、自分以外は親子であっても血の繋がった“他者”だとお話ししてきました。

ぶつかり合いながらも、なかなか離れられないのが親子ですが、血の繋がりもない真っ赤な他者は、いとも簡単に縁が切れてしまうものです。どうやっても受け入れられない価値観を前に、意識的に相手と縁を切ることもあると思います。私はつい最近そういうことがあったばかりなのでよくわかります(笑)

ですが、仕事上の関わりや婚家など関係上(しがらみ上?)疎遠にすることも縁を切ることも現実的に難しい場合もありますし、わかり合いたい縁を切りたくない人もいると思います。

そのような時に思い出してほしいこと、意識してみるとよいことがあります。

価値観が同じ人はこの世に存在しないことを理解する

→血の繋がった家族ですら価値観が合わず衝突することもあるのですから、生まれ育った環境がまったく違う他者と価値観が合わないのは自然なこと。そう理解することで、自分とは違う価値観を受け入れやすくなります。いつもは理解しているつもりでも、親しくなった相手とは、つい同じ価値観を求めてしまいがちではないでしょうか。

違う価値観を知る機会と考える

→自分の価値観を基準にし、その中だけで生きていると柔軟性がなくなり生きづらさを感じたり、怒りも感じやすくなります。「この人とは気が合わない」と感じたら「自分と違う価値観を知る機会(だから認めろ、受け入れろではありません)だ」と捉えてみてください。さまざまな人と関わっていくことで、さまざまな価値観を知り、関わることになり、結果自分の視野を広げていくことに繋がっていきます。文化が違う外国人と接すると価値観の大きな違いに驚きますが、同時に自分の視野も広がった感覚がありますよね。

当然私にもありますが、

どうしても認められない価値観を、自分が苦しい思いをしてまで無理やり認めたり、受け入れたりする必要はまったくありません。

心の中で『なるほどね、でも無理!』で構いません。心の中で、がポイントです(笑)

職場など、どうにもならない時は別ですが、他者と関わる距離(バウンダリー)は自分が決めてよいのですから。

時々面白い価値観に出会うこともあるので、“他者の価値観を知る機会”という柔軟性を持っているとよいし、少し日常のスパイスになって日々は楽しくなるかもしれませんよ(笑)

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エチケットとマナー

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。 

今回は心理学とは少し離れますが、目についたことについてお話ししようと思います。内容に汚話を含んでいるので、読むタイミングに注意してください。

読者の皆さんは【クチャラー】という造語、意味をご存知でしょうか?知っている人は一気に思い出し、食事中の人は不快感が押し寄せてきたかもしれません・・・。

私も書きながら不快になっているのですが、今回はなぜ【クチャラー】が人をそんなに不快にさせるのかを考えてみたいと思います。

随分昔に『自分の食事風景をマナーとエチケットという視点から他者と一緒に評価してみる』という、いろいろな意味でとんでもなく恥さらしで穴があったら入って埋めたくなってしまう講義がありました。

それは定点カメラで自分一人と、グループで食事中の自分の姿を記録して『評価し合う』という考えただけでも恐ろしいもので、それが原因で人間関係が拗れてしまったという笑えない話もあるとかないとか。

幸いなことに、箸の持ち方、使い方、肘を付くなどテーブルマナーにも問題はなく、クチャラーについても無問題でしたが、グループの中に3人、一人は肘を付いて食べる人、もう一人は食器に顔を近付け、皿に顔が付かんばかりの食べ方をする、いわゆる“イヌ食い”、そして今回のテーマであるクチャラーがいました。

無自覚な人が多いのだと思いますが、咀嚼する時に口を閉じず(閉じられず?)、咀嚼音を周りに響かせながら「クッチャクッチャ」と音を立てて食べるのがクチャラーです。誰でも咀嚼時には多少は音が出るものではありますが、彼らは食べ物を噛む度に「クチャクチャ」と咀嚼音、そして舌鼓を打つという文字通り舌を鳴らしたりします。

クチャラーと言われる人たちの多くは、口を閉じずに食べている人で、咀嚼音だけではなく、口腔内にある咀嚼中の食べ物が見えたりします・・・。

「食事くらい好きに食べたっていいじゃん!」そう思う人もいるでしょう。確かにそうかもしれません。

クチャラー同士だとわかりませんが、目の前でクチャクチャ音を立てて食べられると、周りは不快になるものです。咀嚼音ではありませんが、音を立てて啜って美味しそうだと思うのは蕎麦やラーメンぐらいでしょうか。これからの季節はそうめんや冷や麦が美味しそうです。

そして、クチャラーに対して不快になるにはもっともな理由もあるのです。

クチャラーではない人は、食べ物を咀嚼したり飲み込む時には口を閉じます。しかし、

クチャラーの咀嚼音が大きいのは、口を開けたまま咀嚼したり飲み込んだりするから

です。

咀嚼は、歯で食べ物を細かくし飲み込みやすくするためにおこなわれる行為です。

クチャラーのように口を開けたままの状態でクチャクチャ噛むと、当然、細かくなった食べ物や唾液が飛び散りやすくなります。潔癖症でなくても、どれほど仲が良いカップルや家族でも、目の前の他者の口から飛び散った食べ物のカスが、テーブルや自分の食器に付いていい気持ちの人はいません。

開口して食べるクチャラーは、その様子を見たくなくても口腔内が視界に入ってきてしまうのですが、舌を突き出したり食べ物を丸めたり、口腔内の都合のいい場所に移動させたりと舌の動きが忙しなく、とても品の良い食べ方とは言えません。

人が食事を楽しむのに使っているのは味覚だけではありません。美味しそうに見える(視覚)、美味しそうな匂い(嗅覚)、そして、例えば肉のジュージュー焼ける音、鍋のグツグツ煮える音(聴覚)、いろんな感覚をフルに使い、食事を味わっています。

そこに、口を開けて食べている口腔内が見え、クチャクチャと音がする・・・これはもう食事を楽しむどころか、不快感満載の雑音でしかないわけです。

私自身、元祖昭和(笑)なので、息子にも厳しくマナーやエチケットを教え込んでいる真っ最中ですが、マナーやエチケットは

“その人のため”にだけあるのではなく、同じ空間、時間を過ごす他者を不快にしないために身につけるもの

だと思うのです。

クチャラーに限らず、人混みをかき分けて降車しなければならない時に、ただただ力業でグイグイ押し退けるのではなく、ひと言「すみません、降ります(通してください)」が言えること、店で料金を渡す時に投げるように放り出す(案外見るのでびっくりします)、見ている人を不快にする行為はいくらでもあります。

自分に置き換えてみてください。

満員電車で身動きが取れない中、力任せにグイグイ押し退けられるのと、「すみません、降ります」とひと言あるのとでは、どちらに好感が持てますか?

あなたがコンビニスタッフでカウンターにいたとしましょう。トレーにお金を置いてくれたり、手渡すお客さんと、カウンターに小銭を放り投げるように払う(時々転げ落ちて拾わないといけない)お客さん、どちらに好感を持ちますか?

年齢や性差に関係なく見られます。『自分は客なんだ!』を“偉い”と勘違いして横暴、横柄な振る舞いをする人たち。目にする度に残念な気持ちになります。相手はロボットではなく人間です。自分が逆の立場だったらどう感じるでしょう。

クチャラーや食事中のゲップ、『自分は気にならない』という人も少数いると思いますが、言わない、表情に出さないだけで不快に感じている人が大多数ではないでしょうか。

エチケットやマナーは他者を不快にさせないために身につけておく(自分の品を守るためにも)ものであるということを意識すると、それが結果、他者への気遣いに繋がると思うのです。

箸を上手に使い、キレイな食べ方をしている人は見ていて気持ちいいものです。せっかくの楽しいはずの食事、皆で楽しい時間が過ごせるといいですね。

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人間関係の距離感<後篇>

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前篇に続き人間関係の距離感<後篇>、心理的パーソナル・スペースについてお話しようと思います。

物理的パーソナル・スペースはもちろんですが、それ以上に心理的パーソナル・スペースは人により、とても幅があります。

誰でも友好的で人見知りをしないように見える人でも、心理的パーソナル・スペースがとても広い人もいますし、人見知りで取っ付きにくく感じても、心理的パーソナル・スペースが狭い人もいます。

心理的パーソナル・スペースは誰にでもあるもので、その広い狭いは、自分との関係性によって距離を変化させるものと言われ、見た目だけではまったくわからないということを覚えておくとよいかもしれません。

本題に入る前に・・・。

このコラムでよく使う単語に【他者】という言葉があります。他人と他者、同じ意味ですが少しだけ受け取るニュアンスが違うと思います。

親子、兄弟姉妹、夫婦関係では日常的に“他人”という言い方はあまりしませんし、恋人同士で“他人”と言われると、よそよそしく感じてしまいます。“他人”という表現は、自分や自分と親しい人以外、というニュアンスを感じませんか?

一方“他者”は、自分以外すべての人なので、それこそどんなにおしどり夫婦でもピーナッツ親子でも、仲良しカップルでも“自分”以外は他者になります。

この“他人”と“他者”という表現の違いを頭の端に置きながら読んでみると、なぜ他者という言い方をするのかや、“他人”という言い方をした時に感じる違和感を見つけられるかもしれません。

多くのクライエントと話をし、関わってきた中で気付いたことがあります。それは、他者との距離の取り方には幾つかのタイプがあるようだ、ということです。その中で人間関係が拗れやすいタイプを4つに分けてみました。

①自分だけの都合で近づいたり離れたりする、気まぐれな<彗星タイプ>

②ふとした瞬間に(無意識的、意識的関係なく)他者の領域に踏み込む<地雷踏み抜きタイプ>

③近づかないのに遠い所から干渉してくる<マジックハンドタイプ>

④常に領域無視でガンガン踏み込んでくる<無神経タイプ>

自分の周りを思い浮かべながら、どれかに当てはまる人はいないか考えてみてください。

人間関係を上手に構築、持続していっている人を見ると、相手との間柄(関係性)、心的距離を考慮して意識的に『これは聞いちゃダメだ』『ここまで仲良くなったから聞いても(話しても)大丈夫だな』『仲良くなったけど、この話は話題にしないほうがいいかも』などを、人や場面に応じて上手く振り分けて話をしています。

心理的パーソナル・スペースは、仕事やその場でしか関わらない第三者、あまり親しくない他者に対しては広く、恋人やパートナー、親友など親密な他者に対しては狭い人が多いようです。

心理的パーソナル・スペースが広い人には傾向があります。

▶︎自分のペースを守りたい、他者に合わせるより自分のやり方を大切にしたい人。

▶︎人見知りで内向的な人や、元々一人の時間が好きな人。

▶︎自分に近づく危険から自分を守るため、トラブルになりそうな苦手なタイプとは、あまり関わらない人。

・・・なので、警戒心が強く、打ち解けるまでには時間がかかります。また、口出しされたり、自分のやり方を指摘されることが苦手で、集団行動が得意ではない人も多いようです。慎重で心配性、何事も納得がいくまで確認したいと考える、他者に急かされるのが苦手な人も心理的パーソナル・スペースを広く取る傾向があります。

警戒心が強く、自分を守るために縄張り(パーソナル・スペース)をしっかり確保しておきたいと考える人は、苦手な人を絶対に自分の心理的パーソナル・スペースに入れようとはしません。

マイルールや拘りが強く表れるASDの人にも心理的パーソナル・スペースが広い人が多く(ASDのタイプにより個人差がある)、それは、自分の価値観を否定される(かもしれない)ことを強いストレスと感じるからです。

心理的パーソナル・スペースが広い人には、相手のペースを尊重し、適度な心理的パーソナル・スペースを保ちながら、互いの距離を時間をかけて縮めていくことを心掛けると円滑な人間関係が築けるはずです。

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毒親 〜 後編:子供は別人格の他者

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回に引き続き、毒親についての後編として【毒親に育てられた人の特徴】についてです。その前に、

発達障害やパーソナリティー障害にも重複する特徴があるので、すべての特徴を持ち合わせているからといって“毒親育ち”とは限りません。その傾向が高いと理解してください。

では本題に戻ります。毒親に育てられた人の主な特徴は次のとおりです。

・感情を出さない(出せない)。

・そもそも自分の感情がよくわからない。

・自分に自信がなく自尊心が低い。

・安定した人間関係がうまく築けない。

・緊張状態が続きリラックスできない。

・物事に白黒つけたがる。

・情緒不安定。

・人間不信が強い。

・批判されること、挫折に弱い。

・誰かと関わることを恐れる。

・周りの評価を気にして周囲の期待に応えようとする。

・自分を大切にできない。

・そもそも自分を大切にするということがわからない。

・自己犠牲精神が強い。

・思ったとおりに行動することに罪悪感がある。

・責任転嫁しやすい場合もある。

・自分より親の価値観や意見が絶対、または最優先。

・他者の顔色を窺いすぎる。

・責任感が強すぎる。

・自分で決定ができず他者頼みになりがち。

当たりが柔らかくても毒親という人はいます。例えば「あなたのためを思って」「お母さん(お父さん)にすべてを任せておけばいいのよ」「大丈夫、全部わかってるから」と耳障りのよい言葉を使い、先回りします。それが、子供の意思や考えを尊重しない『やさしい虐待』と呼ばれる毒親です。

血が繋がっていてどんなに濃い間柄であっても、

子供は親とは違う人生を歩む別人格の他者。

心配のあまり、子供のすべてに口出しし制限を設け、親の思ったとおりに道を歩ませるのは、伸びていく子供の自主性を阻み、自己決定のできない他人頼り、他者任せに成長させてしまいかねません。

転ばないようにデコボコ道を平らにし、失敗しないように先回りして環境を整えるなど、親には今までの生きてきたノウハウが備わっているので当たり前といえば当たり前です。もちろん自他共に大ケガや命の危険がある行為は別です。

大事なことは転んだり失敗をした時に、失敗体験になってしまった子供の心に寄り添い、大丈夫という声がけと、「次はこうしてみよう」という気持ちを立て直すためのヒントを与えることです。

一度の失敗で物事の繋がりを理解し、先の見通しが立てられる驚異的な能力を持つ子供(大人でも?)はいません。失敗しないように道を平らにならすことばかりに目を向けず、むしろ失敗して傷つき戻ってきた時に「ほら、言うことを聞かなかったから!」と否定したり「こんなこともできないの?」と跳ね除けるのではなく、「そうかそうか、うまくいかなかったか、悔しかったか(悲しかった、痛かった)ね。大丈夫、次はこうしてみよう(こう気をつけてみよう)」と言ってみてください。

世の中にはピーナッツ親子、一卵性親子と言われる状態の親子が存在します。実際に無意識に子供の思考や行動を縛りつけ、指示を出し、子離れ親離れできない一見仲良し親子。第三者から見るとどっぷり共依存というケースがあります。当人同士がよければいいのでは?と思われがちですが、家から一歩も出ない完全引きこもりで人間大嫌い!でもない限り、人は誰かしらと関わりを持ちながら社会生活を送ることになります。当然本人が生きづらさを抱えたり、関わりを持つ他者に戸惑いや不安を与えてしまう場面に出くわすこともあるでしょう。

もし、親子関係に違和感を覚えたり、自分自身に先に書いた特徴にいくつか心当たりがあり、生きづらさを感じている場合、住んでいる自治体の相談窓口を活用することや保健所または医療機関でカウンセリングを受けることもできます。例えば東京都であれば福祉保健局に相談窓口の一覧が掲載されています。

あなたは、あなた自身で、あなたの人生を歩めていますか?