メンタルと心の違いを考える

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

私は広告制作の仕事もしているせいか、言葉に敏感なところがあります。広告はキャッチコピーをはじめ、コピーを考えることも仕事の一つです。商品やサービス、あるいは企業そのものについて、わかりやすく表現する言葉がコピーです。コピーライターという職種が専門にあります。

標題にも書いたように、私たちは『メンタルと心』を同じように使っていますが、果たして同じだろうか?という素朴な疑問が私の中でふと湧きました。

メンタルは英語、心は日本語であることは誰もが納得するところだと思います。そこで、日本語の『心』に近いは英語は何だろうと考えた時、それは『ハート(Heart)』あるいは『エモーション(Emotion)』ではないか?と。一方英語の『メンタル』に近い日本語は何だろうと考えた時、心というより『気分』『気持ち』あるいは『精神』『心理』ではないかと思いました。

私たち日本人は日常において、心が弱る、精神的に滅入る、気分が滅入る、気持ちが落ちる、などと、メンタルと心という言葉をいちいち考えて使い分けることなく、無邪気に使用していると思います。直感的に、と言ってもいいかもしれません。

心とは何か、を少し深く考えた時、それは想いだったり、感情だったり、情緒だったり、いわゆる英語で言うところのエモーショナルなことではないかと思いました。

若者の間で“エモい”という表現が使われています。エモーショナルな事象を“エモい”と彼らは言うらしいのですが、具体的に表現できない、言葉にしにくいことに遭遇した時の気持ちを表すこととして使われるようです。これは何を意味するかというと、思うに、『心が何らかの反応をした』ということではないでしょうか。精神や心理(あるいは気分・気持ち)が何らかの反応をした、と言い換えてみると、どこか違和感を感じます。やはり『心が何らかの反応をした』=『エモい』のほうがしっくりくる気がします。

このように考えてくると、日本語の言う『心』とは、感性(センシティブ)にまつわることと言ってもいいかもしれません。

それに対してメンタルはというと、精神的、心理的な部分のことと言えるのかもしれません。心に理が付くと、途端に感性やエモーショナルなことではなく、脳との関連を想起させます。『理』つまり『ことわり』ですから、思考と密接に関係しているのではないか?つまり脳です。また心理は思考に影響されるところが大きいと言えます。人間関係で悩むことを例にすると、悩むこと自体が既に思考です。さらに精神とは一歩踏み込んだもので、その人の自分軸、支柱、存在意義というか、その中には当然思考も含まれ、現時点でその人をその人たらしめているものが精神ではないかと思うのです。

このように考えるてくると、英語の言う『メンタル』とは、思考(シンキング)にまつわることと言ってもいいかもしれません。

以上のように考えてくると、『メンタル』≒『思考』、『心』≒『感性』となり、即ちメンタルと心は似て非なるものだと言うことができます。なるほど、心理学と脳科学が密接に関係してくるわけです。あくまでも私見ですが。

だとすれば、メンタルヘルスは一般に『こころの健康』と言われていますが、『思考の健康』となります。考え方の健康ということです。ネガティブや悲観的など負の思考に引っ張られたり陥った時を思い起こすと、それに呼応するかのように気持ちに作用し、イライラが募ったり、自暴自棄になったり、体調不良、不眠、食欲不振などが生じます。思考の仕方がそもそもの発端であることがわかります。しかし現実には、そもそもの発端である負の思考は見落とされ、二次的とも言える表面に出ている気持ちや気分にばかり目がいっています。これでは対症療法的なことを繰り返すばかりで、根本解決にはなりません。

仕事が思うようにできない、向いてないのかな・・・と悩む(考える)。今日も上司に叱られた、私は(俺は)ダメな人間だ・・・と悩む(考える)。経済的に苦しい、どうしたらいいんだ・・・と悩む(考える)。などなど、自分の存在、自分の存亡に関わることで悩むこと(考えること)が、メンタルに悪い影響を及ぼしていることがわかります。なるべくメンタルに悪影響を及ぼさないためには、悩み方(考え方)を工夫することが案外有効であり、悪影響を回避できるのではないか、と思うのです。

ここまで考えてくると、性格や生来性はあまり関係がなく、ましてやそれらを変えることではなく(変えることは至難の業)、思考の仕方の選択肢を多く持つと言えばいいのか、『変える』のではなく『拡げる』ことがカギとなりそうです。その結果が心の安定へと繋がっていくのではないか、と思います。思考の仕方を拡げると言われれば何とかできそうな気がします。

最後に、ルネ・デカルトの“我思う故に我あり”という有名な言葉があります。簡単に言い換えると“私は考えている、だから私は存在している”となります。つまり、『私』の存在は『考える』ことで成り立っているということです。メンタルが思考にまつわるものだとすると、ハートやエモーションといった感性にまつわる『心』とは明らかに異なるものと言えそうです。

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大阪小6女児誘拐事件から考えること

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

大阪でSNSが発端で未成年が巻き込まれた事件がまた起こってしまいました。すべてが表に出ていなくても、SNSが発端の事件やトラブルは案外起こっています。

今回はインターネット(SNS)を介することで無意識に生まれてしまう独特の心理をお話したいと思います。

我が家にも中二病真っ最中の思春期男子がいますが、ゲーム障害の懸念と私の教育方針からインターネット機能がないキッズ携帯しか持たせていません。

フィルタリングを掛けたタブレットは、基本私の目の届くところで最長30分使用・・・という、スマホを与えている家庭にはない厳しいルールを設けています。

ゲーム障害については、以前このコラムで書きましたので、そちらを参照してください。

幼少期から「知らない人には付いて行ってはいけません」と口を酸っぱく言われながら育つ子供たちが、何故こうも簡単に事件に巻き込まれるのでしょうか?

ここには成長過程で当たり前に訪れる、いずれ精神的に自立していく(親離れ準備)ために“必要な”反抗期とSNSやそれらを通して共通項を発見(オンラインゲームやアニメなど多数)した時に感じる親近感などにより、反発する親以外の自分より圧倒的な知識を持つ大人に対する尊敬や憧れ危機感を持たせにくくしてしまう

思い込みマジック

が関係しています。

私はゲームといえば将棋と囲碁くらいしかやらないのでよくわからないのですが、オンラインゲームは顔も名前も当然素性もわからない人物とインターネットで繋がり、チームを組んで同じ目的のためにプレイするようです。

最初は同じ目的がスタート、そこで力を合わせ味方としてゲームのクリアを目指すうちに、強い仲間意識が生まれるまでは理解できますよね。そこからチャットやダイレクトメッセージのやり取りが絡むと、その中で相手に対し無意識に自分の良いイメージ、悪いイメージが

第ゼロ印象

として刻まれます。ただ、第ゼロ印象がすこぶる悪ければ「チームとして力は合わせるけど・・・」で、わざわざ1対1で会おうとはしないでしょう。

同じ目的➡︎仲間意識➡︎ダイレクトメッセージでのプラス印象。でも、これはオンラインゲームを通して“だけ”見える、他者のたった一部なのですよね。実際顔を合わせても他者の本質など時間をかけなければわからないのに、何故、文字列や声を聞くだけで“いい人”だろうと錯覚してしまうのでしょうか。

そこには社会経験もなくリスクマネジメントができない未成年であることを忘れ、『自分は大丈夫』という根拠のない自信だったり、自立していくために必要な親離れ反抗期からくる『親は何もわかってくれない』『親うぜぇ』『自分はもう子供じゃない(自他に責任を負えないから未成年なのですが)』『自由になりたい、もう家出したい』などの心理が働きます。中高生時代、一度は思ったことがある人も多いのではないでしょうか。

思春期は学校では友人関係や上下関係で悩み、家では親との関係で悩み、漠然と将来に不安を覚え・・・ですから、精神的にとても不安定になりやすい時期でもあるので、親ではない自分の中でフラット、プラス印象を持つ大人から(演技でも)共感され「話を聞くよ」「力になるよ」「ウチに来ない?」などと言われると、未熟な子供たちは『いい人』に映りますよね、やはり。

もちろん、大人でも“その人物の本質”を見抜けず、コロッと騙されたり、事件に巻き込まれることは多々あるのですが、経験・知識不足、対応力不足の未熟な未成年とでは比になりません。

何かが起こってからでは遅いので、何もかも学校任せ、学校頼みにするのではなく、家庭でも

危機意識を持ち、それを家族で共有

し、子供に先の見通しを立てさせながら一緒に“身近にある危険”について話ができるようでありたいものです。

余談ですが、最近は家庭対応の範疇だろうと思われることまで学校に持ち込む保護者が多いことに驚きます。実際にあった話では、

「ウチの子は何度起こしても起きないから、先生がモーニングコールしてください」

あり得ないです(笑)