柔軟性のないガチガチな正義を振り回す人

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然ですが読者の皆さんは“正義感”と言われるものの根幹にあるものは何か、ご存知でしょうか。

それは良くも悪くも、長く生きてきた中で培われた“価値観”に他なりません。

価値観は人の数だけ存在します。

コロナが本格的に流行り始めた時、『マスク警察』という言葉が流行りました。そのベースにあるのは『感染したくなければマスクをつける』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける』ですが、マスク警察にかかると『感染したくなければマスクをつける“べき”』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける“べき”』と、“べき”思考が先歩きし“べき”に縛られてしまいます。

酷い皮膚炎やアレルギーなどで本当はマスクを付けたくても付けられない人もいますし、周囲に誰もいなくて人とすれ違わない場所だから苦しくてたまたま一時的に外していたという場合もあります。それぞれ人には事情がある(かもしれない/場合がある)ということですが、物事を一方向からしか見ていないと「マスクしてない、けしからん!」になるわけです。

混んだ店内やバス、電車内でマスク未着用で注意を受けるならまだしも、誰もいないことを確認した上で“たまたま”一時的に顎マスクにしていた時に、いないと思っていたトイレから人が出てきて「なぜマスクをしないんだ?(マスクを付けるべきだろう!)」と突然絡まれたら・・・

そこにいるのはたまたますれ違った二人だけ、話さなければ飛沫も飛ばないのですから、サッと通り過ぎればいいだけのこと。いちいち呼び止めてマスク未着用を咎めるほうが感染リスクを上げ、言い合いになってしまうかもしれない(それ以上かもしれません)トラブルになる可能性を上げているように思えます。

実際に大阪で事件が起きています。報道によると無人だった路地をマスクをせずに歩いていた男性が、たまたま現れた高齢男性にいきなり「マスクしろ」と言われ逆上し、高齢男性に怪我を負わせた、という事件です。もちろん怪我をさせた男性は逮捕されましたが、マスクをしろと言った高齢男性は怪我が元で、下半身不随になり車椅子生活になってしまったそうです。その高齢男性は「何も言わなければよかった」とテレビの取材に答えていました。

“べき”思考は自分を縛り付け、息苦しく生きづらくなってしまうだけでなく、他者にその思考が向いた時には思わぬトラブルを引き起こします。大阪の事件のように下半身不随という後悔しても後悔し切れない事態になりかねません。

「(バスや電車の)車内でお年寄りに席を譲る“べき”」→自分一人がその考えで行動するのはまったく問題ありません。でも、お年寄りでなく元気に見えて座っていても持病があり、立っているのが辛い人だったり、まだお腹は目立たなくても妊婦さんかもしれない、辛い治療をした病院帰りの人かもしれません。内部疾患は身体の不自由とは違い、パッと見はわかりません。これも、“わからなくても人にはそれぞれ事情があるかもしれない”ことなのです。

この「自分はこう思うし考えているけど、他者には他者の考えがあるし、自分にはわからない事情があるのかもしれない」と考えること、それは【想像力】です。気持ちの余裕のなさも多少は関係しますが、白黒思考と想像力が乏しい結果が自分の正義を他者に押し付け、「自分は間違ってない!」と身勝手な正義を振りかざす〇〇警察になってしまうのだろうと思っています。

〇〇警察でなくても周囲にいませんか?

「子育てはこうあるべき」

「仕事はこうするべき」

などなど、やたら“べき思考”で考えを押し付けてくるような人たち。

「それいいね、他にもこんなやり方があるよ」ならカチンとこないものを、「それよりこのやり方でやるべきだって」と、いちいちマイルドに否定してわざわざカチンカチンとくる言い方をする人。

単に言い方のクセなのか、物事を自分本位に一方向からしか見られない人なのか、これだけはわかりませんが、相手をするのはなかなか面倒で疲れるのは確かですよね。

【行き過ぎた正義】これは他者都合や事情をまったく考えていない、正義の名のもとに自分都合でのみ人を傷つける、もはや凶器です。

振りかざす正義感同様、意思疎通に便利な言葉というツールを、できれば凶器として使わないようにしていきたいものです。

見えない価値観、見えない他者の都合や事情。見えないけれど、確かに存在するものだと頭の隅に入れておくだけで変わるのではないでしょうか。

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