インクルーシヴ教育を過去“お世話係だった自分の経験から考える【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

昨日はちょっと蒸しましたね。

さて、前回に続きですが、学校生活でやんわり無理やり押し付けられたお世話係がなぜ悲惨なのかは【1】でおわかりいただけたと思います。

誤解のないように明記しておきますが、私は障害を持つ子供も障害を持たない子供と同じように学ぶインクルーシヴ教育の理念に賛成です。

 実際に息子は発達障害重複(ADHD、ASDの両方を持ち合わせている)ですが、小学校〜中学校と普通級に在籍しながら人間関係やコミュニケーションなどSSTは個別支援で通級(情緒級)に通いました。そして、通級という選択をしなければ、今、何の個別支援も合理的配慮も必要なく、普通高校に通学することは叶わなかったかもしれません。

文部科学省ではインクルーシヴ教育を「インクルーシヴ教育システムにおいては、同じ場で共に学ぶことを追求するとともに、個別の教育的ニーズのある幼児児童生徒に対し自立と社会参加を見据えて、その時点で教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できる、多様で柔軟な仕組みを整備する」としています。

また混同されやすいのが、“障害を持つ人が障害のない人<同等な生活をする>ノーマライゼーション意識がベースの統合教育”であるインテグレーション教育です。まだまだ改善点はあると思っていますが、インテグレーション教育をもとに改善を重ね発展させたのがインクルーシヴ教育になります。

インテグレーション教育の失敗は“障害のある子も通常級に入らせて同じ環境で学ばせる”に重きを置いたことです。障害を持つ子供という部分を個々と考えず、ひとまとめにしてしまったことで、支援や配慮はひとり一人違うにも関わらず、“その子供が本当に必要としているニーズにまで辿りつかなかった”ことです。その結果、学力格差が浮き彫りになったり、悲しいことにいじめに繋がりやすいといった問題が発生しました。

同じ環境で学ばせる、ただそれだけではインクルーシヴ教育とは言えません。インテグレーション教育と同じ過ちを繰り返してしまうだけです。

スペシャルニーズを持つ彼らがどのようなニーズを持っているのか、保護者や第三者支援機関から細かに聞き取り、『学校側(教育委員会/自治体)が』足りないものや必要なものを人員配置も含め、環境整備できるのか?が第一に考えなくてはいけない部分です。

もちろんそこには、一緒に学ぶ障害を持たない子供たちへの“お世話係”のような過度な負担は絶対にあってはならないのです。

優しさや思いやりは、それを(やんわりでも)無理強いさせることからは生まれません。

極端な言い方になりますが、自発的ではなく押し付けされたお世話係では思いやりや優しさよりも、のびのび自由に友達と関わることも制限された学校生活しか送れず、窮屈さに息が詰まり、我慢を強く負わせられる責任の重さに逃げ出したくなるだけです。もっと言えば、障害者嫌いという負の感情を芽生えさせかねず、障害者への差別感情を植え付けかねません。

そうならないために、受け入れる側(自治体/学校側)の正しい理解と準備が今以上に進むことが求められます。幼い時からさまざまな障害を持つ人たちに接し共に学ぶことで得られる理解と経験は、ダイバーシティが叫ばれる昨今何ものにも代え難い大切な経験です。

インクルーシヴ教育はさまざまな障害を理由に排除される子供を作らず、学校生活に参加し共に学習することが基本理念です。

そのためには障害を持っていることで排除されがちな子供たちを同じ場所、同じやり方で学校生活を送らせることにこだわるのではなく、共生を目指すためにどのようなサポートが必要かの具体的なスキーム作りが必須です。

同時に「障害(重度含む)のある我が子を普通級に入れたい」と考える保護者が正しくインクルーシヴ教育を理解し、自分視点で「障害があっても平等に学ぶ権利がある!」と声高らかに叫ぶだけではなく、“障害がない子も同じように(お世話係など押し付けられず)平等に学ぶ権利がある”ことに目を向けてもらえるようにすることも必要ではないでしょうか。

普通小学校は集団生活の中で人間関係や勉強を学んでいきます。一部の医療ケアが必要な子供は除きますが、知的身体的に重度の障害がある場合、勉強や人間関係の前に身辺的自立が目標となります。身辺的自立とは、一人で着替えができる、最初は完璧に仕上がっていなくて失敗はあるかもしれませんが、排泄関係にほぼ問題がないなどです。

対処することはあっても、幼稚園や保育園ではありませんから、小学校普通級では身辺的自立への支援はありません。なぜなら、すべての教員が特別支援の専門教育を受けているわけではなく、身辺的自立を目指させるのは特別支援級や特別支援学校の役割になるからです。

障害を持つ子供を障害を持たない子供が学ぶことを前提にした環境に、ただ在籍させればインクルージョンではないのです。努力しても(各々がその能力や特性に応じた努力は必要だと思っていますが、そもそも無茶な努力をさせる自体がどうなのか?ですが)できないことがある、それが障害です。

障害には誰もがわかる身体的なものから、発達障害や軽度知的障害などわかりづらいものまで多種多様です。

一見奇異に感じる言動の裏には必ずその子(その人)の理由があり、原因があります。“困った子(人)”ではなく“困っている子(人)”だと考えるとどうでしょうか。

インクルーシヴ教育は教育現場を支える側の正しい理解と行動、環境作りの努力に加え、私たち保護者側にも正しい理解がなければワガママを垂れ流す自己都合“のみ”の権利をただ叫ぶ、それこそ困った保護者になってしまう危険があるのです。

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年頭のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

メンタル・イデア・ラボ代表のスミです。旧年中はコラムをお読みいただき、誠にありがとうございました。本年も引き続きお読みいただければ幸甚に存じます。

さて、年が明けて早速、東京、埼玉、神奈川、千葉に緊急事態宣言が発令されることになりました。それだけで気分は滅入り気味です。昨年の春に緊急事態宣言が発令され、リモートワークが叫ばれました。今ではリモートワークも一定程度の定着をみせているようです。しかし、その弊害も生まれました。

その弊害は報道されることは滅多にないのでわかりにくいですが、よく聞くのはプライベートと仕事の切り替えが上手くできない、長時間労働になって疲れる、など人それぞれですが、弊害は確実に発生しています。

そしてまた緊急事態宣言の発令・・・メンタルがますます不安に包まれやすい環境になります。疲弊と言ってもいいかもしれません。ちょっと深刻な様相を呈してきています。よく『心が折れる』と言われますが、その前になんとかできないか、という思いで2019年にメンタル・イデア・ラボを立ち上げました。経営陣はじめ社員のメンタルを少しでもケアし、ストレス緩和、低減のヒントを一人ひとりに合った方法で提供しています。

ぜひ企業の人事・労務ご担当者の方は、社員のメンタルに今こそ目を向けてもらいたいと思います。社員の『心が折れてしまった』後では、組織にとってもいいことはありません。リモートワークを推奨するということは社員の顔が見えなくなる、ということなので、メンタルケアの体制を同時に確立する時期だと思います。急速なストレスに個人で対処するにはあまりにも負担が大きいと推察します。その急速なストレスの緩和・低減をサポートする環境の整備が必要な時にきているのではないか、と思わずにはいられません。

どうか本年も経営者、社員が“心身ともに”元気で過ごし、貴社の今後のますますの発展のためにも、メンタル・イデア・ラボをどうぞよろしくお願いいたします。

2021年 丑

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